第1173回 スポーツが動いた「昭和60年」
2025年がスタートした。今年は戦後80年の節目の年にあたる。さらには「昭和100年」を迎えるということもあり、いくつかの雑誌から「昭和の名勝負」と題した特集の執筆依頼を受けた。
私事で恐縮だが、この2月で65歳になる。前期高齢者の仲間入りを果たすのを機に、私の生きた「昭和」を振り返ってみた。
昭和史研究の第一人者である保阪正康によると、昭和は三つの期間に区切られるという。前期が昭和元(1926)年から20(1945)年9月2日の無条件降伏の日まで。中期が昭和27(52)年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効まで。そして後期が昭和天皇が崩御した昭和64(89)年1月7日までだ。
1960年生まれの私は、前期も中期も知らない。では、生きてきた後期の中で「激動」と呼ぶに最もふさわしい年といえば、それは昭和60(85)年をおいて他にない。
この年の9月22日、米国から世界を揺るがすニュースが飛び込んできた。ニューヨークのプラザホテルでG5の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、為替市場での協調介入によるドル安誘導策が確認された。世にいうプラザ合意である。
これにより急激な円高ドル安が進み、多くの日本企業が生産拠点を海外に移した。産業の空洞化である。円高対策のための低金利が過剰なマネーサプライを生み、バブル生成、そして崩壊という顛末を辿ったのは苦い記憶である。
悲しい事故もあった。8月12日に起きた日航ジャンボ機の墜落。死者520名の大惨事となった。翌日の朝刊の見出しは「安全神話崩壊」。犠牲者の中には阪神タイガース中埜肇球団社長もいた。「あの時、皆が社長のために優勝しようと結束した」。チームを21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ分立後初の日本一に導いた吉田義男は、後年そう語った。
西武との日本シリーズは10月26日、西武球場でスタートした。第1戦は阪神が3対0で勝利した。この日、もう一つのビッグゲームが国立競技場で行われた。86年メキシコW杯出場をかけたサッカーの日韓戦である。「スタジアムに入ると日の丸が揺れていた、それは初めて見る光景だった」。守りの要・加藤久の弁だ。
木村和司の伝説のフリーキックこそ生まれたものの、日本は1対2で敗れ、アウェーでも辛酸を舐めた。既にプロ化していた韓国との力の差は明白で、これを機にプロ化の機運が高まっていく。
プロ化を前提とした第1回活性化委員会が開かれたのが88年3月。当時はバブルのピーク。「(プロ化の準備をするのが)あと3年遅れていたら、バブルは弾け、Jリーグは生まれていなかったかもしれない」。初代チェアマンの川淵三郎はそう語った。これも歴史の綾である。
<この原稿は25年1月1日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>