その瞬間、何とも言えない気持ちの悪い感覚に襲われたのを覚えている。あれ、オレはもう野球を観る資格がないのだろうか、というような……。
 6月26日の中日−広島戦である。0−0で迎えた3回裏、無死。広島の打者はこの日がプロ入り初登板初先発のルーキー・中村恭平。なんとかバットに当てた打球は、大きくバウンドして三塁前へ。中日の三塁手・森野将彦が打球が落ちてくるのを待って一塁へ送球。これがワンバウンドになって、セーフ……のはずだったのである。ところが、塁審の判定はアウト!
 えっ? この程度の基本的なアウト、セーフを間違うようでは、オレはもうダメだな。それが最初に襲った気持ち悪さの内実だった。
 と思ったら、次の瞬間、広島・野村謙二郎監督が走ってくる。いきなり佐藤一塁塁審を両手でドーンと諸手突き。退場!
 そうか、やっぱりセーフなんだ、よかった、まだオレも野球が観られるな、と安堵したのでした。
 とともに、今度は無性に笑いたくなった。野村監督が塁審を両手で突き飛ばすシーンを思い返したからである。佐藤塁審という方は、なかなかいい体格をしている。一方の野村監督はどちらかと言えば小柄である。なんだか、聞き分けのない子供が大人につっかかっていく図のように見えたのだ。

 この退場劇については、様々な考察が可能である。
 まずは判定。アウト、セーフの判定の普通の常識的な感覚からすれば、セーフである。アウトと判定すること自体に、何らかの問題はあるだろう(例えば、解説の北別府学氏は「私が見てもセーフでしょ、あれは」とまず言った後、ビデオが流れるのを確認して「セーフですね」と言っている。試合後、前田智徳は「(セーフは)明らか。ひどいなと思った」<スポーツニッポン6月27日付>とコメントしている)。
 しかし、野球に限らず、あらゆるスポーツにおいて、審判の判定は絶対である、という原則がある。これをないがしろにして、スポーツは成立しない。この原則論を否定することは難しい。

 次に野村監督の抗議。いきなり手を出したというのは、やはり許されないだろう。審判への暴力が容認されれば、スポーツは成立しなくなる。
 少なくとも、プロの監督ならば、抗議の時間も入場料のうち、と思っていただきたいものですね。暴力ではなく、口と態度で示してほしい。
 とまぁ、原則的なことはいろいろ言えるけれども、妙に印象に残ったのは、野村監督の抗議の仕方の稚拙さである。子供が訳もわからず大人にぶつかっていく図に見えてしまったのは、あの構図が、期せずして、彼のもつある種の幼さを象徴的に表していたからかもしれない。

 ところでこの試合、8回裏に広島が、前田智、石井琢朗の連続代打タイムリーで得点し、2−0で勝つのだが、もう一つ、印象に残ったことがある。中日は弱いなぁ、ということだ。
 例えば、この日がプロ初登板初先発の中村恭は、5回1/3を無失点という、まずまず立派なデビューを飾った。しかし、これが交流戦だったら4、5点は取られただろうな、という想像が頭を離れないのである。
 もちろん、科学的な根拠はありませんよ。しかし、森野、和田一浩、グスマンというクリーンアップが、まるで打てそうに見えない(実際には、和田が最後に1本ヒットを打ったのだが)。

 中日といえば、この時点で堂々セ・リーグの2位である。広島は最下位に近い5位だ。その両チームがほぼ互角の、見所にとぼしい貧打戦を展開する。こんなことでいいのだろうか。
 何もこの試合を持ち出すまでもない。交流戦の結果を見れば明らかなことだが、現在、セ・リーグよりパ・リーグの方が強い。それも、かなり力に差がついてきてしまっているのではないか。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 これは、もはや日本野球の抱える大問題というべきではあるまいか。両リーグが対等に凌ぎを削らないと、野球全体のレベルが下がってしまう。パだけ強ければいい、というものでは決してない。セもパも強くなければ、やがて間違いなく日本野球は根腐れするだろう。気づいた時には手遅れ、ということになりかねない。
 ダルビッシュ有にしろ、中田翔(ともに北海道日本ハム)にしろ田中将大(東北楽天)にしろ、あるいは斎藤佑樹(日本ハム)や、菊池雄星、大石達也(ともに埼玉西武)を入れてもよいが、近年、確かにいい選手がドラフトでパ・リーグにいっているという傾向はある。だが、原因はそれだけではないだろう。

 これが原因だ、と確実的に言えるものを持っているわけではない。
 しかし例えば、セ・リーグの象徴的存在である巨人。スター選手をかき集める手法は時に批判を浴びるが、原辰徳監督は、むしろ生え抜きの若手を育てようとする傾向がある。それはいいことだ。だが、結局、誰も育ちきれないでいる。松井秀喜(アスレチックス)が抜けた後、おそらく高橋由伸が故障しがちでスターになりきれなかったことが大きい。あと誰かいますか? おそらくは現在、その最有力候補である坂本勇人は、今季、エラーの多さばかり指摘される。確かに彼は才能にあふれているが、最終的には雑なところがある。

 そういう育成に関わる側面で、セ・リーグは何かが欠けているのではないか。
 いくら統一球が飛ばないとはいえ、広島の4番・栗原健太はホームラン1本(6月30日現在)である。同じリーグ5位の 西武の4番・中村剛也は20本だ(同)。本人の努力や才能の問題もあるだろう。しかし、この差は本当にそれだけなのだろうか。
 広島と西武の打者育成の能力の差、という側面も見逃してはいけないのではないか。西武は、中村だけが例外的に打てるのではない。中島裕之もいるし、若手・浅村栄斗も育った。一方の広島には、昨年から急成長をみせた廣瀬純がいるが、むしろ彼のケースは例外にみえる。

 問題は、育成に関わる、あるいは球団経営に関わる、ある種の稚拙さ にある。
 我々が広島・野村監督の抗議に見てとったあの幼さは、単に彼個人の資質を表象するものではなかったのかもしれない。むしろ球団を覆う〈弱さ〉の根源が、あのような形で噴出した瞬間だったのかもしれない。
 これはぼんやりした不安ではない。今すぐ解法を見つけるべき課題である。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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