全力でやり切った山瀬功治の偉大なる25年間
山瀬功治が25年という長いプロキャリアに別れを告げた。
昨シーズン限りでレノファ山口FCと契約満了となり、その去就が注目されていたが2月末にクラブから現役引退が発表された。
遠藤保仁と並ぶ24年連続ゴールというJリーグ記録を持ち、リーグ通算646試合の出場(J1通算288試合、J2通算358試合)を誇る。独特のリズムで繰り出すドリブルと高いシュートセンスが持ち味ではある。ただ、チームの歯車になることを何よりも心掛けてきたイメージが筆者には強い。だからこそこれだけ息の長いプレーヤーとなり、コンサドーレ札幌(現 北海道コンサドーレ札幌)、浦和レッズ、横浜F・マリノス、川崎フロンターレ、京都サンガF.C.、アビスパ福岡、愛媛FC、そしてレノファと所属したいずれのクラブでも重用されてきた。
3月2日、維新みらいふスタジアムでのホームゲーム終了後に、山瀬の引退セレモニーが行なわれた。奇しくもプロキャリアをスタートさせたコンサドーレが対戦相手であり、アウェイのサポーター席には「俺達の待ちの誇り ありがとう 山瀬功治」と横断幕が掲げられていた。挨拶の場に立つと両クラブのサポーターから大きな拍手が送られた。
もう25年前になる。
札幌出身で2000年に地元の北海高からコンサドーレに加入。プロデビュー戦(5月4日、湘南ベルマーレ戦)で延長Vゴールを挙げてチームに勝利をもたらしたファーストインパクトは大きかった。日本代表を率いた岡田武史監督のもとティーンエイジのルーキーながら14試合に出場し、J1昇格に貢献。プレーも振る舞いもどこか大人びていた印象があった。
彼がこう語ってくれたことがある。
「1年目の新人なので“俺が俺が”と主張するには、それだけの自信も確固たる結果もないといけません。でも自分にはそれがない。じゃあどうすればいいかなって考えたときに監督にとって〝使い勝手のいい〟選手になろう、と考えたんです。岡田さんが言っている理論やサッカーに対する価値観をできるだけ表現しよう、と。ただ技術がつたなかったら、監督からすれば使えない。技術を磨くところは一生懸命にやったと思います」
アピールするためには“俺が俺が”になってもおかしくない。しかし山瀬は求められているものは何かとアンテナを張り、冷静に己と照らし合わせながら日々のトレーニングに励んだ。そのことがグングンと成長を呼び込んだ。
J1に昇格した2年目の2001年シーズンはレギュラーとして活躍し、その年のU-20のワールドユース選手権にも出場する。コンサドーレに山瀬あり、とその名前を全国にとどろかせ、Jリーグ最優秀新人賞を獲得している。
使い勝手のいい選手になる――。
山瀬のキャリアを振り返ってみれば、どこか一本の線としてつながっているように思えてならない。ケガとの闘い、戦力外通告など負の経験が繰り返されても彼の心が折れることはなかった。
5クラブ目となったサンガでも主力として奮闘しながら2016年シーズン限りで契約満了となり、彼はアビスパへと渡る。前線からボランチまで、求められればポジションにこだわらず、どこでも働いた。30代後半に入っても、山瀬は山瀬であった。
「チームという大きな歯車のなかで、目立たないけど欠かせない1つのパーツになりたい。そんな思いでしたね。心技体で言えば、技術は上がっていても体は落ちている。総合的に見たらトーンダウンしているのかもしれない。ならば監督からみて、使い勝手のいい選手になればいいんじゃないかって、そこに立ち戻るわけです。
今までの生き方に、後悔は一つもないです。嫁さんとも話をするんです。『仮に明日死んだとしても、全力で生きてきたよね』と。何が言いたいかって、今をフォーカスして、今と向き合いながら生きてきたということ。それはこれからも変わらないし、全力で生きたいと思っています」
愛媛でもレノファでも、チームのパーツになろうとした。今をフォーカスして研さんを積んできた証が、24年連続ゴールという偉大な記録につながった。
山瀬功治はプロのフットボーラーとしてのキャリアを全力で、情熱を持ってまっとうした。セレモニーで見せた清々しい表情が、そう語っていた。