両足義足ランナーのオスカー・ピストリウスが、世界の舞台を駆け抜けました。韓国・大邱で開催中の陸上世界選手権、男子400メートルに出場したピストリウスが見事、予選を突破し、準決勝に進出したのです。この結果には称賛の声とともに、疑問視する声があがっていることは事実です。しかし、世界の舞台を堂々と走り抜けた彼の姿に、私は感動せずにはいられませんでした。「こうやって、新たな歴史の扉を開いていく人がいるんだな」。彼の並々ならぬ努力を思うと、そう思わずにはいられなかったのです。
(写真:熱戦が繰り広げられている大邱スタジアム)
 28日、男子400メートル予選。私はゴール前の席に座り、彼の登場を今か今かと待っていました。いよいよ最終組、ピストリウスが他の7選手とともにトラックに姿を現わしました。確かに彼だけが両足に義足をつけています。しかし、その堂々たるや、他の選手と何ら変わりありませんでした。

 実は予選と準決勝とでは会場の雰囲気が違っていたのです。スタート前に場内アナウンスで選手の名前がコールされるのですが、予選では「オスカー・ピストリウス」という名が呼ばれ ても、特に観客からの反応はありませんでした。考えてみれば、今大会に義足ランナーが出場することは知っていても、それがどんな選手で、どの種目に、いつ出てくるのか把握している人はそう多くはなかったでしょう。それに加えてスタジアムは非常に広いですから、スタンドからピストリウスを見ても義足ということはほとんどわからないのです。

 ところが、予選で3着に入り、準決勝進出が決まったとたん、メディアがこぞって彼を取り上げました。記者会見場には人があふれかえっており、それだけでもピストリウスへの注目度の高さがわかりました。おそらく出場が決まった時よりもメディアの取り上げ方は大きかったことでしょう。瞬く間に全世界にピストリウスの名が広まっていったことは想像に難くありません。すると翌日の準決勝ではピストリウスの名がコールされるや否や、会場中から歓声とともに嵐のような拍手が沸き起こったのです。確かにそれは ピストリウスという一人のアスリートへの称賛でした。

 ピストリウスの存在を知ることの意義

 とはいえ、ピストリウスというランナーの存在を全ての人が快く受け入れたわけではありません。 一部報道では同じレースを走った選手の中には義足に対して「アンフェアだ」と口にした人もいたと伝えられています。今後も義足の優位性についてはさまざまな見解が出るでしょうし、いろいろな人がいろいろな意見を述べるでしょう。しかし、私はあの会場にいて 思いました。義足への議論についてはひとまず置いておいて、今はとにかくピストリウスというランナーのパフォーマンスだけに注目してもいいのではないかと。

 なぜならピストリウス自身、これまで散々、いろいろと言われてきたはずだからです。 北京五輪の際にも一度は国際陸上連盟から健常のランナーと同じ舞台を踏むことを許されませんでした。しかし、それでも彼は走り続けた。そして今回、世界陸上という舞台の出場権を勝ち取ったのです。つまり、彼は周囲からどんなことを言われてもいいと、その覚悟があるのです。 それでもルールにのっとって、自らはさらなる高みを目指している 。そのことをただ純粋に受け止めたい。そしてこの歴史的瞬間を大事にしたいと思ったのです。
 前述したように、これから義足についての議論が起こることは必至です。それでも ピストリウスが、世界陸上やオリンピックという舞台を目指そうとするのは、いたって自然なこと。それも時代の流れの一つなのです。

 ピストリウスは生後11カ月から義足で生活をしています。それから義足を装着して走る術を磨き、厳しいトレーニングを積み、そして今、ようやく世界の舞台まで駆け上がってきました。彼が子供だった頃、彼を含めたすべての人に、このことは想像できなかったでしょう。しかし今、この晴れ舞台を見た多くの障害のある子供たちは、世界を目指すことを現実の目標とすることができます。ピストリウスによって開かれた扉の向こうには、さらなる無限の可能性が広がっているのです。今大会でピストリウスというランナーの存在を知ってもらうことで、たとえ両足を失ったとしても、才能と努力によってこれだけのパフォーマンスができるというメッセージを全世界に伝えることができました。それこそがピストリウスが出場した一番の意義だったといえます。

 9月1、2日に予選、決勝が行なわれる男子1600メートルリレーにもピストリウスが出場する予定です。今度はどんな走りを見せてくれるのか、楽しみでなりません。ピストリウスが義足という運命をどう受け止め、どのような思いで、この世界の舞台へと駆け上がってきたのか。そんなことを思い描きながら、ぜひピストリウスの走りに注目してみてください。

伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。1991年に車椅子陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。11年8月からスタートした「The Road to LONDON」ではロンドンパラリンピックに挑戦するアスリートたちを追っている。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。