「伝統」と「改革」は対立しない!<前編>

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 近年、大相撲の人気低迷が顕著だ。現在開催中の九月場所2日目に、1985年以降の東京場所としては過去ワーストとなる5682枚のチケットが売れ残った。会場の両国国技館の収容人数は約1万1000人。つまり半分以上の席が埋まらなかったことになる。相次ぐ不祥事に加え、人気力士の不在が大きく影響したのだ。伝統に頼るばかりでは、前進はない。窮地に追い込まれた今、大相撲は改革の時を迎えている。
 そこで7年前の原稿を振り返り、大相撲が歩むべき道を探ってみよう。
<この原稿は2004年『勝者の組織改革』(PHP新書)に掲載されたものです>

 勝つための「実学」を阻害する要素が、この国にはいろいろある。「敗者の美学」もそうだし、「根拠のない楽観主義」もそうだ。こうした感情論や信仰は、いずれも冷静な思考の対極にあるものだろう。そして、実学には物事を冷静に考える姿勢が欠かせない。
 さて、冷静さの対極にある行動といえば、もう一つ見逃せないものがある。日本人には、何かあるといっせいに一つの方向に流れる悪い癖があるのだ。だれかが「右」と言えば大多数が右を向き、「左」と言えばてのひらを返したように左に流れる。

 最近では、イラクの人質事件がそうだった。「自己責任だ!」という号令がかかったときはいっせいに人質や家族を叩きはじめ、やがて行きすぎたバッシングが批判されると、こんどは「国家責任だ!」と政府を叩くようになったのだ。
 こうした行動パターンは、「実学」にとって百害あって一利なしである。なぜか。これが実学の妨げになるのは、「二者択一」の発想に陥りやすいからだ。
 冷静に考えれば、二者択一で「正解」が得られるわけではないことはわかるだろう。クイズや入試問題ならともかく、人間のやることというのはもっと複雑だ。どちらかが完全に違っているということはほとんどない。左右どちらにも一長一短があるケースの方が多いのである。
 イラクの人質事件の場合も、人質やその家族にもミスや反省点はあっただろうし、かといって政府の主張がすべて正しいわけでもないだろう。物事の是非や善悪というのは、決して一面的なものではない。その多様で複雑な中身を丁寧に仕分けして議論し、理性的な判断を下すのが「実学」というものである。
 しかし、みんながいっせいに右だ左だと大騒ぎしてしまうと、「どちらが正しいのか」という大雑把で乱暴な議論になりがちだ。「右」の長所と「左」の長所を生かすことによって、よりよい結論を出そういう発想にはならず、「是か非か」というオール・オア・ナッシングの考え方しかできなくなってしまうのである。

 スポーツの世界でも、マスメディアやファンのあいだで、そういう粗雑な議論がしばしば起きる。たとえば、サッカーの日本代表が試合で結果を出せないときに必ず巻き起こるのが、「解任か続投か?」という監督人事に関する議論だ。
 実際、2002年の日韓ワールドカップまでは「トルシエ擁護派」と「トルシエ解任派」がつねに戦っていたし、いまもサッカー界には「ジーコ派」と「反ジーコ派」を自認する人々が大勢いる。私自身、この仕事をしていると、「二宮さんは、どっち派ですか?」と訊かれることが少なくない。
 しかし私にいわせれば、そうやって「○○派」というレッテルを貼った時点で、すでに冷静な議論は成り立たなくなっている。「擁護派」も「解任派」も、その監督を続投させるかクビにするかという処遇自体が目的になってしまい、本来の目的を見失いがちだからだ。いうまでもなく、議論されるべき本来の目的は「いかに代表チームを勝たせるか」ということだ。求められるのはまさに「勝者の実学」なのであって、「派閥争い」のようなものは無用なのである。

 もちろん、擁護派も解任派も「代表を強くするために言っているのだ」と主張するだろう。だが、そこで大切なのは「解任か続投か」ではない。どちらを選ぶにしろ、勝利の確率をより高めるための条件づけをしっかりやることが大切なのだ。
 チームが結果を出していないのであれば、仮に監督を続投させるにしても、そのまま何も手を打たないのでは単なる不作為でしかない。それこそ数値目標と期限を明確にして、「これをクリアしなければクビ」という条件を明示するのも一つのやり方だろう。コーチ陣を入れ替えるなどのテコ入れも必要だ。もちろん、最悪の事態に備えて次期監督候補の人選も進めておかなければいけない。「解任か続投か」という二者択一の議論では、そういう「解任も視野に入れた続投」という現実的な判断ができなくなるわけだ。
解任する場合も、ただクビにすればいいというものではないだろう。その判断が正しいかどうかは、次の監督をだれがやるかによって変わってくる。後任の監督が前任者よりもよい結果を出す保証はどこにもない。いまよりもっと悪くなる可能性だってあるのだから、後任監督がだれかという前提もないまま「解任か続投か」などと議論しても、何の意味もないのである。

 それ以外にも、どういうわけだかオール・オア・ナッシングの議論になってしまうテーマは多い。「組織か個人か」というのもその一つだ。
 団体競技の世界では、組織プレーと個人プレーのどちらが大事か、という不毛な議論をよく耳にする。当然、「どちらも大事」が正解で、組織と個人は車の両輪のようなものだと私は思うのだが、そうは考えない人が世の中には多いらしい。「組織なんて所詮は個人の集まりにすぎない」「いや、組織なくして個人はない」などと禅問答のような平行線の議論を続けている。これはどちらも正論だし、要は同じことを言っているだけなのだが、なぜか対立しているのである。

 いずれにしろ、こうした二者択一の発想は思考停止を招きやすい。やや前置きが長くなってしまったが、本章で取り上げる大相撲も、このオール・オア・ナッシングの発想が人気凋落に拍車をかけているように私には見える。
 では、大相撲における不毛な二項対立とは何か。
 それは、「伝統か改革か」というものだ。「伝統」を選択することによって、「改革」が打ち捨てられているのである。
 大相撲は日本の国技であり、きわめて長い歴史もあるから、たしかに伝統は重んじるべきだと私も思う。しかし、「伝統を守る」ことと「改革を断行する」ことは決して対立する概念ではない。「組織」と「個人」が団体競技にとって車の車輪であるのと同様、「伝統」と「改革はいずれも大相撲という車をまっすぐ走らせるのに欠かせない要素だ。「伝統か改革か」と二者択一を迫るのは、左のタイヤと右のタイヤのどちらかを外せというのと同じくらいナンセンスな話である。

 事実、輝かしい伝統を誇る大相撲協会は、同時に、これまで数々の改革を断行してきた。たとえば土俵の広さ一つとっても、過去に変更が加えられたことがないわけではない。取組をおもしろく見せるために、大きくした時代もあれば小さくした時代もある。土俵の上にある釣り屋根も、昔は四本の柱で支えられていた。それでは観客が見にくいので、天井から吊るすようになったのだ。
 また、昔は「同門対決」もなかった。三保ケ関一門や佐渡ケ獄一門など、同門の力士は部屋が違っても対戦しなかったのである。しかしこの習慣も、より相撲をおもしろくするために廃止された。本場所の回数も、昔から年六場所だったわけではない。
 こうした例は枚挙に暇がない。なかでももっとも大胆な改革はビデオ判定の導入だろう。誤審防止のためにビデオを導入すべきだという声は野球やサッカーでも聞かれるが、まだ実現してはいない。ところが相撲界は、あらゆるスポーツに先駆けてそれを採用した。古いやり方に固執しているように思われがちな大相撲界だが、実のところ彼らは非常に柔軟な発想を持った改革集団だったのだ。

 つまり、つねに「改革」を怠らないことこそが、相撲界の「伝統」なのである。したがって、「伝統か改革か」という二者択一には何の意味もない。大相撲は「改革」を続けることによって「伝統」を守るべきなのだ。
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