第281回 70年と全く違うアルゼンチン代表 ~ホルヘ・ヒラノVol.16~
1985年6月16日、ワールドカップ南米予選グループ1、第5節、ペルー代表対ベネズエラ戦は、ペルーの首都、リマにある国立競技場で行われた。
この時点でグループ首位は4連勝のアルゼンチン代表、2位の1勝2分けのペルー代表、3位の1勝2敗のコロンビア代表と続いた。最下位のベネズエラ代表は4連敗。それぞれ勝ち点は、8、4、2、0。この当時、勝ち点は勝利が「2」、引き分けが「1」だった。
ペルー代表に残されていたのは、ホームでのベネズエラ戦、そしてアルゼチン代表との2試合。数字上では、ベネズエラ戦を含めて2連勝すれば勝ち点で首位のアルゼンチン代表と並ぶ。まずは、出場権獲得の望みが全くないベネズエラ代表戦を叩きつぶすことだった。
ベネズエラ戦から監督に就任したロベルト・チャーレは、4-3-3の布陣を敷いた(括弧内は所属クラブ)。
【キーパー】 エウセビオ・アカスソ(ボリーバル ボリビア)。
【ディフェンダー】 レオ・ロハス(ウニベルシタリオ)、ホルヘ・オラエチェア(インデペンディエンテ・メデジン コロンビア)、ルーベン・ディアス(スポルティング・クリスタル)、ウーゴ・ガストゥーロ(ウニベルシタリオ)。
【ミッドフィールダー】 セサル・クエト(アメリカ・デ・カリ コロンビア)、ホセ・ベラスケス(ヘルクレス・アリカンテ スペイン)、エドワルド・マラスケス(インデペンディエンテ・メデジン)。
【フォワード】 フワン・カルロス・オルビータス(スポルティング・クリスタル)、フランコ・ナバーロ(インデペンディエンテ・メデジン)、ヘロニモ・バルバディージョ(ウディネーゼ イタリア)。
インデペンディエンテ・メデジンの所属選手が3人含まれているのが目を惹く。
このクラブはコロンビア第2の都市、メデジンを本拠地としており、後にコロンビア代表のレネ・イギータ、カルロス・バルデラマが所属したことで世界中にその名を知られることになる。麻薬組織、メデジンカルテルと密接な関係があり、豊富な資金力を背景に南米大陸中から能力の高い選手を集めていたのだ。また、バルバディージョはジーコが去った後のウディネーゼに加入している。
ヒラノの技ありゴール
オルビータス、セサル・クエトは70年ワールドカップのグループステージを勝ち抜き、決勝トーナメントに進んだメンバーだ(準々決勝でペレ、ガリンシャのいた最強のブラジル代表に敗れた!)。ペルーサッカー最良の時代の選手と若い世代を組み合わせたチームだった。ホルヘ・ヒラノは控え選手としてベンチで待機することになった。
試合開始からホームの観客の声援に後押しされたペルー代表は、攻め続ける。
まずは前半15分、フランコ・ナバーロが先取点、そして19分にバルバディージョが追加点を挙げる。29分、ゴールキーパーのアカスソがボールをこぼしてしまい、ベネズエラ代表のフォワードに詰められて失点してしまい、前半は2対1で終了。
後半14分、背番号22をつけたヒラノがマラスケスに代わってピッチに入った。
そして後半35分、左サイドに流れたオルビータスがクロスボールをあげた。中央の選手の打ったシュートはベネズエラのディフェンダーが掻き出した。そのボールはフランコ・ナバーロに代わって入っていたギジェルモ・ラ・ロサの足元に入った。ラ・ロサが打ったシュートはヒラノの足元に――。ヒラノは冷静にヒールキックのような形でボールをゴールに入れた。3対1である。
その1分後、ヒラノは左サイドから浮き球をバルバディージョに出した。バルバディージョは右足でボールを落とし、セサル・クエトがシュートを決めた。試合は4対1で終了した。
勝ち点6となったペルー代表は1週間後の6月23日、勝ち点2差で首位、アルゼンチン代表をリマで迎えることになった。会場はベネズエラ戦と同じ、リマの国立競技場である。
アルゼンチン代表にとってペルー代表は因縁の相手でもあった。70年のワールドカップの南米予選で、ペルー代表に敗れ、出場権を獲得できなかったのだ。
マラドーナ擁するアルゼンチン代表
ただし、85年のアルゼンチン代表はこれまでとは全く違うチームだった。世界最高の選手、ディエゴ・アルマンド・マラドーナがいたのだ。
マラドーナは、1960年10月にブエノスアイレス州のラヌースの貧しい家庭で生まれた。初めてのボールは叔父からのプレゼントだったという。5歳から地元のサッカーチームに入り、すぐに頭角を現した。アルヘンティノス・ジュニアの下部組織からトップチームに昇格、プロ契約を結んだ。15歳11カ月でのプロ契約はこの時点でアルゼンチン最年少だった。
81年に国内で最も人気のあるクラブ、ボカ・ジュニアに移籍。このシーズン、38試合で28ゴールを挙げてクラブをリーグ優勝に導く。そして82年のワールドカップに出場。
アルゼンチン代表はグループリーグを勝ち抜き、2次リーグに進出。この2次リーグの三カ国は、アルゼンチン代表、ブラジル代表、そしてイタリア代表という優勝経験のある強豪国揃いだった。アルゼンチンは両国代表に敗れ、リーグ最下位に終わった(下馬評の高かったブラジル代表を破ったイタリア代表が優勝)。この中でもマラドーナの力は抜きんでていた。
ワールドカップの後、約700万ドルという当時の世界最高額の移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍。マラドーナはピッチの中の天才にありがちだが、ピッチ外では気儘だった。クラブとの関係が悪化、84年にやはり世界最高額の1100万ドルでイタリアのSSCナポリに移っていた。
ペルーではフットボールは単なるスポーツの1つではない。フットボールが全ての最優先の国だ。代表戦になると、街のあちこちのバールでみながペルー代表はマラドーナをいかに押さえるか口角泡を飛ばして論じていた。国中の話題はサッカー一色だった。多額の身代金を取れると踏んだ、ペルーの左翼ゲリラ『センデロ・ルミノソ』が誘拐計画を企てているという報道まであった。
そんな中、ペルー代表監督のチャーレはアルゼンチン代表=マラドーナ対策として、2つの秘策を温めていた。1つはヒラノ、である。
(つづく)
田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)
代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。