第280回 W杯南米予選中での監督交代 ~ホルヘ・ヒラノVol.15~

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 1984年、前年度ペルー1部リーグ優勝クラブである、スポルティング・クリスタルはリベルタドーレス杯に出場した。スポルティング・クリスタルは同じペルーのメルガル、ベネズエラのウニベルシダ・デ・ロス・アンデスとポルトゲーザと共にグループ5に入った。スポルティング・クリスタルとウニベルシダ・デ・ロス・アンデスは4勝2敗、得失点差も同じプラス2で並んだ。そして、5月11日に第3国であるコロンビアのカリでセカンドステージ進出をかけて対戦し、1対2で敗れた。ホルヘ・ヒラノは先発フル出場したが、得点はあげていない。

 

 この年、ペルー1部リーグはファーストステージとして“地域大会”が行われ、上位チームが優勝決定リーグに参加するという方式だった。スポルティング・クリスタルは、ウニベルシタリオ、アリアンサ・リマなどペルーの強豪クラブが集まる“メトロポリタン・グープ”で12チーム中3位に入っている。しかし、優勝決定リーグでは4位で終わった。

 

 優勝決定リーグの中断期間にペルー代表は親善試合として、コロンビア代表、ウルグアイ代表と2試合ずつ対戦している。来年から始まる1986年ワールドカップの南米大陸予選の準備のためだった。ヒラノは3試合で先発した。

 

 86年のワールドカップは当初、コロンビアで開催予定だったが、経済状況の悪化により開催権を返上し、メキシコでの開催となった。

 

 南米大陸の出場枠は4カ国。南米大陸予選は、全10カ国が4、3、3の3つのグループに分けられていた。各グループ首位は出場権を獲得、グループ2位はプレーオフに回る(4カ国のグループ1のみ2カ国がプレーオフ進出)。ペルー代表は、アルゼンチン、コロンビア、ベネズエラとグループ1に入った。

 

 ペルー代表は2月から5月にかけて、他のグループであるボリビア、チリ、ウルグアイ、エクアドル、そしてブラジルと親善試合を重ねて、5月26日の予選に臨んだ。グループリーグは約1カ月で計6試合を戦うことになる。現在では考えられないほどの過密スケジュールだった。

 

荒れた初戦

 

 南米予選初戦はコロンビアのボコタでのコロンビア代表戦だった。

 

 当時の国際試合、特にワールドカップ出場権のかかった試合は激しく、審判は公平ではなかった。

 

 ペルー代表は開始4分に、ホルヘ・オラエチェア、15分にフランコ・ナバロが連続してイエローカードを貰っている。

 

 そして前半26分、コーナーキックからのボールをミゲル・プリンスが頭で合わせた。ペルーのディフェンダーは足に当てたが、ボールはゴールの中に転がった。

 

 その後もペルー代表は前半42分にホセ・ベラスケスがイエローカード、後半の7分にルベン・トリビオ・ディアスがレッドカードで退場処分を受ける荒れた試合となった。試合は1対0でコロンビア代表が勝利している。ヒラノはベンチ入りしていたが、出番はなかった。

 

 ヒラノは当時の南米サッカーの“激しさ”についてこう語る。

「チリ代表にパト・ヤネスという足の速い選手がいた。前に長いパスが出て、彼が走れば誰も追いつけない。ペルーとチリが親善試合をしたときだった。彼に手を焼いているのを見て、キャプテンのパナデロが“俺に5分だけあいつのマークに付かせてくれ”〟って言った」

 

 パト・ヤネスことパトリック・ヤネスは、スペインのレアル・バジャドリッド、レアル・サラゴサなどでプレーした俊足ウイングだ。

 

 パナデロは、ペルー代表の守備の要、78年、82年のワールドカップにも出場した、ルベン・トリビオ・ディアスの愛称である。 

 

右WGから右SBへ

 

「パナデロはパト・ヤネスがセンタリングのボールを蹴る瞬間にボームに向かって滑り込んだ。ボールだけでなく、顔まで蹴飛ばした。ヤネスはピッチの外まで飛んでいった」

 

 ピッチの外、陸上のトラックまで吹っ飛んだんだよと笑った。

「当時のルールでは、先にボールに触ってから(顔を)蹴ったからファールじゃなかった。その後、右ウイングのパト・ヤネスは、ポジションを下げた。右サイドバックの位置にいた」

 

 ペルー代表の第2戦は、ベネズエラのサン・クリストバルで行われたベネズエラ戦だった。この試合は1対0で辛勝。

 

 続く第3試合はリマの国立競技場でのコロンビア戦だった。この試合でヒラノは南米予選に初めて先発した。試合は0対0。

 

 試合後、監督のバラック・モイゼスは更迭された。ウニオン・ウアラルからヒラノの才能を買っていたモイゼスが去り、新監督としてロベルト・チャーレが就任した。

 

 選手時代のチャーレはウーゴ・ソティル、テオフィロ・クビージャスと共にペルー代表の黄金期を支えたミッドフィールダーだった。彼のペルー代表としての初めての対戦相手はメキシコオリンピック予選のために南米遠征をしていた日本代表だった。67年7月、リマの国立競技場での試合でチャーレが1得点を挙げて、1対0で勝利している。

 

 チャーレは80年に現役引退し、翌年からコレヒオ・ナシオナル・デ・イキトスの監督に就任。その後も国内クラブを率いていた。

 

 次のホームのベネズエラ戦まで一週間しかなかった。

 

 ベネズエラはこのグループで勝ち抜く可能性のない“アウトサイダー”とも言える存在だった。ましてや今回の試合はリマで行われる。ホームである。絶対に負けられない試合だった。

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)

代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。

 

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