「川上(哲治)さんは陸軍内務班のような野球をする」。陸軍内務班と聞いても若輩者の私にはピンとくるものがない。きっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのだろう。白髪の老紳士はニヤリと笑って、私にこう助け舟を差し向けた。「いや、悪かった。アンタたちに戦争の話をしても、そりゃわからんわな」
 言葉の主は5日前に心不全で永眠した西本幸雄さん。これは今から20年ほど前の話だ。ちなみに「内務班」とは帝国陸軍中隊などに置かれた組織で軍律の厳しいことで知られた。西本さんは川上巨人を軍隊に見立て、自らの野球はそうではないと大正生まれの気骨を示したように映った。

 大毎、阪急、近鉄の監督として8度のリーグ優勝を達成しながら、結局、日本一には1度もなれなかった。阪急時代、川上巨人には5たび敗れた。「本当に悔いはないのですか?」。恐る恐る聞くと、独特の張りのある声で、こう答えた。「確かにオレは日本シリーズで8回も負けたけど、強がりではなく後悔はない。自分のつくったチームが上り坂にあると感じる時の快感は優勝よりええもんやった」
 そして続けた。「オレの場合、短期決戦は“早く勝ってしまいたい”という気持ちが強いあまり、ことごとくしくじってしもうた。しかもシリーズ中“オレもよく、ここまでのチームをつくったもんや”と自己満足に浸るもんやから、スキが出て引っくり返されてしまう。特に阪急の時がそうやったな。オレが鍛えた選手が、あのONと勝負しとるわけよ。もう、それ見ただけで涙出そうになったね。よう、ここまできたもんやと……」

 最後に西本さんにまつわる大好きなエピソードをひとつ。これは6年前に亡くなった仰木彬さんから聞いた話。仰木さんは近鉄時代、西本さんの下で8年にわたってコーチを務めた。
 当時、近鉄は高知の宿毛で春のキャンプを張っていた。温暖な四国の地とはいえ、山と海にはさまれた小さなまちは風が強く、雪が舞う。ある時、ドラム缶のたき火の火の粉が西本さんのウインドブレーカーに引火した。そばにいた仰木さんが慌てて払い落そうとすると、指揮官は微動だにせず、こう声を張り上げたという。「これはオレの体が発した火花じゃ!」。生粋の闘将だった。合掌。

<この原稿は11年11月30日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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