村田修一の横浜から巨人へのFA移籍は、もし「清武の乱」が起きていなければ、実現していなかった可能性が高い。

 それは清武英利前球団代表兼GMの次のコメントからも明らかだ。
「僕は彼の獲得には否定的でした。これについては渡邉(恒雄)会長も、桃井(恒和)オーナー(現社長)も、同じでした」(『週刊現代』12月24・31日号)
 野球においては得点圏打率の低さ(11年は1割9分6厘)、プライベートにおいては髪に剃り込みを入れるような態度が、巨人には合わないと判断したようだ。
 しかし、清武氏の解任で流れは変わった。後任の原沢敦球団代表兼GMは「ウチの補強ポイントに合っている。優勝をするために必要な選手」と村田を高く評価している。

 巨人は11年シーズン、9人の選手がスタメンでサードを守った。ラスティ・ライアル、亀井義行、脇谷亮太、円谷英俊、大田泰示、古城茂幸、小笠原道大、ジョシュ・フィールズ、寺内崇幸。ホットコーナーが入れ代わり、立ち代わりではチームは安定しない。
 巨人にとってサードは長嶋茂雄がその価値を高めた特別なポジションである。その後も中畑清、原辰徳らスターがサードの威光を守ってきた。
 あの江川卓も野球を始めたのはサードだった。ミスターに憧れる少年たちにとって、そのポジションは、いわば“聖域”だった。
「4番サード」。この語感には、独特の響きがある。それを村田が実感するのは巨人のユニホームを着て、実際にグラウンドに立ってからだろう。原監督は5番からのスタートをほのめかしている。

 村田が原監督の下でプレーするのは2009年の第2回WBC以来ということになる。村田は第2ラウンドの韓国戦、4回にセンター前ヒットを放ち、一塁を回った際に右太ももの裏を痛めた。ドクターストップが宣告され、無念の帰国を余儀なくされることとなった彼は、唇を噛みながら、こう語ったものだ。
「ここまで体を張ってジャパンのために尽くしました」
 1週間後、村田にサプライズが待っていた。監督の原から直々に優勝メダルが手渡されたのだ。村田の闘志を指揮官が評価した何よりの証である。

 村田は正直な男である。横浜を出る理由について、こう語った。
「優勝争いをしたいという夢が捨てきれなかった。自分の気持ちにウソはつけない」
 ソフトバンクへFA移籍した1年目に日本一となり、勝利の美酒に浸っている元同僚の内川聖一の姿を見れば、「オレだって」となるのは当然だろう。

 それにしても、と思う。中日の谷繁元信、ソフトバンクの多村仁志、内川、そして巨人のユニホームを着る村田。「よこはま・たそがれ」なんて歌もあったが、人材流出球団に未来はあるのか。気持ち的には新生ベイスターズに肩入れしたくなる今日この頃である。

<この原稿は2012年1月1・8日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

◎バックナンバーはこちらから