プロ2年目の2010年、登里は出場機会を大幅に増やした。リーグ戦9試合、天皇杯1試合、アジアチャンピオンズリーグ6試合に出場。天皇杯、ACLでは先発の機会も得た。ただ、1試合に1ゴール1アシストで華々しい活躍を見せたルーキーイヤーとは裏腹に、ゴールやアシストという結果がなかなか生まれない。彼は、大きな壁にぶつかっていた。
 失いかけたアイデンティティ

 試合に出ても結果がついてこなかった要因はどこにあったのか。
「1年目は出場すれば、いい結果も出ていました。試合に入る場面もチームが勝っている状況だったり、交代カードの3枚目で使ってもらっていたので、プレッシャーも少なかったんだと思います」
 登里の言うとおり、1年目で出場した5試合中4試合はチームがリードしている状況での投入。翻って2年目は16試合のうち途中出場が13試合。うち9試合はスコアが同点またはビハインドの状況で起用されている。登里には流れを変えて、勝利を呼び込むプレーが求められていた。
「チームが勝つことを考える中で、自分も結果を残さないといけないという気持ちもあったので……。簡単にいえば“空回り”していたと思います」

 リーグ戦では5月の湘南ベルマーレ戦でアシストを記録したものの、他の試合では得点に絡むことができなかった。ボールを受けても今までのように仕掛けられない。ドリブルをしても抜ける気がしない。結果を残したいという思いは、自身のアイデンティティである「積極的な仕掛け」と「自信」を奪っていた。リーグ戦で最後に出場したのは7月の鹿島アントラーズ戦。8月以降はベンチメンバーからも外れるようになった

「ベンチから外れだした中盤以降は、普段の練習でも自分のプレーができなくなりました」
 登里の焦りは、周囲にも明らかに伝わっていた。コーチの鬼木達や今野章に「最近調子はどうだ?」と声をかけてもらっても、「全然ダメですね」と返す。彼らにもどかしい現状を相談することで気持ちは楽になるが、うまくプレーできない日々が続いた。

 それでも、止まない雨はない。晴れ間が見えてきたのはあるアドバイスがきっかけだった。
「鬼木さんに、“別にミスしてもいいんだから、どんどんチャレンジしろ。自分のかたちから入ればのれる”とアドバイスをもらいました。このおかげで吹っ切れたというか、徐々に調子が上がっていきましたね」
 
 雲間から光が差し込んできた登里は、U-22日本代表としてアジア大会の参加メンバーに選出される。指揮官は1年目に川崎の監督を務めていた関塚隆だった。
「他にも多くの選手がいる中で呼んでもらった。調子は悪かったですけど、モチベーションは高かったです」
 ロンドン五輪を目指すチームには、当時大学生だった永井謙佑(現名古屋)やJリーグで十分に出番を得られていない選手が多かった。2度の短期キャンプを経て、11月、登里は広州アジア大会に臨んだ。

 代表でも控え選手という位置づけに変化はなかった。初戦の中国戦で途中出場を果たすと、すでに予選リーグ突破を決めていた第3戦のキルギス戦では、スタメンでピッチに立った。

 アジア大会での復調

 この試合で登里が失っていた輝きを取り戻す。まず前半5分、右サイド深くからの折り返しを右足でゴールに流し込み、チームに先制点をもたらした。後半16分には、PA内でボールを受けたところを倒されてPKを獲得。これを自らが沈めて2点目を奪った。だが、まだ登里の勢いは止まらない。34分、PA手前でボールをキープし、左前方へスルーパス。反応した選手が相手GKに倒されて、日本が再びPKを得た。ここは倒された選手がキッカーを務めたため、ハットトリックとはならなかったものの、日本の3得点に大きく絡んだ。

「キルギス戦は自分のかたちを出せました。サブ組としての出場でしたけど、やっぱり試合に出てみて、すごく楽しかった。こういう経験をもっとしたいと思いましたね」
 積極的にボールに絡み、ゴールへと向かう。日本はこの大会、優勝を収め、登里は復調への確かな手応えを得て、川崎へと戻った。

 クラブに戻ってくると、2年目のシーズンがほぼ終わろうとしていた。この頃に、登里は中村憲剛に自身のスランプについて相談をしている。
「“今年は全然ダメですね”と憲剛さんに話すと、“試合に出て活躍したいのは分かるけど、それまでの準備ができていないんじゃない?”と言われたんです」
 先輩の言葉を登里は否定することができなかった。1年目の手応えから、もっと“試合に出たい”という気持ち、モチベーションは常にあった。だが、普段のストレッチや筋トレ、体のケアなど、試合までの“準備”を怠っていた自分がいた。中村は決してエリート街道を歩んできた選手ではない。しかし、日々の努力で日本代表に上り詰めた。それだけにその一言には重みがあった。

 結局、アジア大会後もクラブでは出場機会がないまま、悩み抜いた2年目が終了した。しかし、中村の教えを胸に登里は前を向いていた。
「オフシーズンに入って、家にいる時もサッカーのことを考えていました。2年目は確かに苦しみましたけど、その経験をプラスに捉えるように3年目はゼロからスタートするという気持ちでいました」

 新しいスタイル

 迎えた3年目。新監督に相馬直樹が就任し、登里同様、クラブも新たなスタートを切った。
 スランプに陥った2年目のような思いは2度としたくない。中村から言われた“準備”にも万全を期した。3月5日の開幕戦。等々力競技場のピッチには、躍動する登里の姿があった。
「開幕戦に賭けているところはありましたね」
 リーグ戦初のスタメンに加え、ゴールも記録。上々の“再デビュー”を飾った。東日本大震災の影響で中断期間を挟んだ後も、登里はスタメンで使われる。コンスタントに出場することで、新たな発見も出てきた。

「1、2年目は途中出場から、何をしようと考えていました。それがスタメンで出るようになって、以前にも増して試合の流れを見るようになりましたね。プレーする時間が増えたということは、当然、いい場面も悪い場面もある。試合にも勝ったり負けたりする。なので、試合が終わるたびに“何が悪かったのか”を分析する頻度が増えましたね」

 自分のプレーに悩むこともある。だが、それは2年目までとは全く質の違う悩みだ。
「2年目は試合に出られないことを悩んでいた。今は試合に出て、“どうやったら崩せるか”“あの時のパスの選択はどうだったか”“もう少しドリブルできた”と、普段、そして試合中にも考えるようになりましたね」

 経験を積むことで新しい自分のスタイルも見え始めた。7月27日のナビスコ杯1回戦のサンフレッチェ広島戦で、登里は1ゴール1アシストを記録した。最初のゴールは従来の持ち味を生かしたものだ。1−1で迎えた後半9分、自陣でボールをカットすると、そのまま自分で持ち上がる。スピードに乗ってあっという間にゴール前に到達。シュートはブロックに入ったDFに当たるが、こぼれ球を自ら押しこんだ。

 続く17分、ニュー・登里が現れる。中央でボールを受けると、前方で動きだしていた小林悠に絶妙なスルーパス。勝利を決定づけるアシストを記録した。
「今までは外で勝負することが多かった。でも、あのアシストは中の位置でボールを受けてのプレーでした。中で受けて、シュートに持ち込んだり、パスを出したりというのをすごく意識していました。その中でスルーパスを通せたので、いい仕事ができたというか、何か自分の新しいかたちが見えたかなと感じました」
 
 8月6日のセレッソ大阪戦でも、味方のシュートがこぼれたところを押し込んだ。今季は公式戦23試合で3ゴール。少し立ち止まりはしたものの、登里のサッカー人生は、再び上を向いて動き始めた。

(第4回へつづく)
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登里享平(のぼりざと・きょうへい)プロフィール>
1990年11月13日、大阪府生まれ。クサカSS─EXE'90FCジュニア─EXE'90FC─香川西高。香川西では高校サッカー選手権に3年連続出場を果たすなど、全国の舞台を経験。3年の選手権後には高校選抜にも選出された。09年、川崎フロンターレに加入し、2試合1得点。昨季は9試合と出場機会を増やした。迎えた今季、開幕戦でスタメンに抜擢されゴールをあげるなど、19試合2得点。今後の川崎を背負う選手として期待されている。またU-22日本代表にも選出され、10年広州アジア大会では優勝に貢献。現在は来年のロンドン五輪出場を目指している。爆発的なスピードと積極的なドリブル突破が持ち味。身長168センチ、体重65キロ。背番号23。







(鈴木友多)
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