6日後の1月31日は“東洋の巨人”としてマット界に君臨したジャイアント馬場(本名・馬場正平)さんの13回目の命日だ。もし馬場さんが生きていたらおとといで74歳になっていた。
 最近は馬場さんが元巨人の投手だったことを知る者も少なくなってきた。新潟の三条実高を中退して巨人に入団したのが55年。以来、5年間、巨人に在籍した。馬場さんというと「野球で失敗してプロレスに転向した人」というイメージが強い。あらまし、そうなのだが、データを調べていくうちに馬場さんの別の姿が浮かび上がってくる。

 通算防御率1.29。1軍でわずか7イニングしか投げていないとはいえ、この記録は見事である。2軍では3年連続で最優秀投手になっている。2軍でこれだけの実績を残しながら1軍での登板機会に恵まれなかったのは、当時の巨人が第2期黄金時代を謳歌しており、別所毅彦、大友工、堀内庄、安原達佳、藤田元司ら投手陣が充実しきっていたからだ。馬場さんがもう少し前か後に生まれるか、他のチームに入っていたら、もっと違った野球人生を歩んでいたに違いない。そうなれば“東洋の巨人”も誕生していなかったことになる。なるほど人生の禍福はあざなえる縄のごとし、である。

 馬場さんの1軍初登板は57年8月25日、甲子園での阪神戦だった。敗色濃厚の8回、いわゆる敗戦処理としてマウンドに上がった。
 最初に対戦した打者は“牛若丸”の異名をとった吉田義男。身長差、約30センチ。「まるで天井からボールが飛んでくるようだった」と吉田は振り返る。「ボールが速い上に重い。しかも角度があり、おまけにコントロールもいいときている。僕は真っすぐを詰まらされてセカンドゴロでした。なんで、こんないいピッチャーが1軍で投げてこないんやろうと不思議に思ったことを覚えています」

 中学生の頃、田舎のテニスコートで馬場さん率いる全日本プロレスの興行を見た。奥まったところに控室があり、サインをもらうため恐る恐る近付くとパーンという乾いた音が聞こえてきた。何だろうと思って振り返ると外の通路で馬場さんと、日本陣営に加わったザ・デストロイヤーがキャッチボールをしていた。“魔王”が捕手役だった。プロレスの世界で成功を収めても、まだ野球への未練があったのではないかと今にして思う。

<この原稿は12年1月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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