国内で18のゴルフ場を運営する太平洋クラブとその子会社が東京地裁に民事再生手続きの開始を申請したというニュースを一抹の寂しさとともに聞いた。
 太平洋クラブが1973年から76年にかけて「ライオンズ」の球団名だったことはプロ野球ファン以外にも広く知られている。だが、その実態については、あまり語られていない。少なくとも太平洋クラブはライオンズの「親会社」ではなかった。球団に冠料を支払うスポンサーに過ぎなかった。にもかかわらず球団を「所有」していたと誤って記憶している向きが少なくないのは、ネーミングライツという契約形態が、当時としては極めて稀だったからである。

 球団の運営主体は福岡野球株式会社だった。オーナーは岸信介の秘書などを務めた中村長芳。“黒い霧事件”によるダメージで買い手を探していた西鉄から球団を買収した。いわば“負の遺産”を引き継いでのスタートだった。
 親会社を持たない福岡野球株式会社は冠料を支払ってくれるスポンサーを探した。名乗りを上げたのが71年に創設された太平洋クラブだった。球団社長兼代表だった坂井保之(後の西武球団代表)によれば、初年度は3億円、2年目以降は2億円のネーミングライツ料が支払われることになっていたが、この約束は反故にされた。農地法の改正に伴って、農地のゴルフ場転用が厳しくなり、事業拡大が困難になってしまったからだ。

 球団の台所を預かる坂井は語っていた。「太平洋クラブからの資金はある日、突然2000万円送られてきたかと思ったら、また次の日に1500万円。こっちは予算も組めない。それに、その程度の金じゃ焼け石に水。2月に島原でキャンプを張る。その費用を払い終えたのはシーズンが終わる9月頃でした」

 太平洋クラブライオンズの寿命はわずか4年。その後、冠スポンサーはクラウンライターに代わり、78年に巨大資本の西武グループが買収する。本拠地も所沢へと移転した。
 太平洋クラブ、クラウンライターの6年間はライオンズにとっては灰色の時代だが、この苦難の6年間がなかったらライオンズの歴史は潰えていた。中村や坂井たちがはいつくばりながらも次世代にバトンを渡した意義は決して小さくない。

<この原稿は12年2月1日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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