野球殿堂入りを果たした213勝投手・北別府学(元広島)の後年の最大の武器は「インスラ」だった。右バッターのインコースへのスライダー。バッターが腰を引いた時点で勝負ありだった。江川卓や小松辰雄のような空振りをとれるスピードボールを持たない北別府にとって、この「インスラ」の精度こそはピッチングの生命線だった。
 ミリ単位のコントロールを誇る北別府は「インスラ」をバッターボックスの白線からホームベースの端、ボール約1個半の幅に自在に投げ込むことができた。「精密機械」の異名をとった男ならではの神業だった。「シュートとセットで使うと、まず右バッターは対応できませんね」。現役時代、北別府は自信あり気にこう言い放った。

 この「インスラ」には開発者がいる。251勝投手の東尾修(元西武)だ。西鉄入団3年目の1971年、チームは38勝84敗8分けで、優勝した阪急から43.5ゲーム差の最下位に沈んだ。“黒い霧”事件の後遺症がチームに暗い影を落としていた。

 当時、パ・リーグで圧倒的な強さを誇っていたのが西本幸雄率いる阪急。その核弾頭が福本豊だった。70年、71年と連続して盗塁王となった福本は翌72年にはプロ野球新記録となる106盗塁をマークし、MVPに輝いた。いかにして福本の足を封じるか。それがパ・リーグの5球団に突き付けられた喫緊の課題だった。

「1死三塁の場面が一番嫌だった」。振り返って、東尾はこう語る。「三塁走者が福本さんなら外野フライが上がれば、まず1点。ボテボテの内野ゴロでも(本塁に)還ってくる。福本さんを三塁に釘付けにするためにはバッターから三振をとるしかない。しかし、僕に三振をとれるだけのボールはない。そこで考え出したのがインスラだったんです」

 阪急の主砲は強打で鳴る長池徳二。右のプルヒッターだ。外野フライなど造作もない。左肩にアゴを乗せる独特の構えの長池はインコースにめっぽう強く、ストライクかボールかの見極めにも絶対の自信を持っていた。東尾はこの打者心理の盲点を巧みに突いた。一見、何の変哲もないボール球を内角に配する。見送る長池。ボールはそこからスッと軌道を変え、ホームベースの角をよぎるのだ。正体は「インスラ」だった。このボールこそは持たざる者の知恵の結晶だった。

<この原稿は12年1月18日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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