最近「障害者スポーツ」という呼称に違和感を持つようになりました。このコラムのタイトルを「障害者スポーツの現場から」とつけたものの、私の中でその違和感がどんどん膨らんできているのです。様々な場面で、パラリンピアンが自身の競技のことを「障害者スポーツ」と言っているのを聞いていても、彼らのトップアスリートぶりと、「障害者スポーツ」という言葉の間に違和感を抱くこともしばしばです。そこで、今回はこの「障害者スポーツ」という言葉について考えてみます。
 前回、このコラムで私は、<パラリンピックはもはやオリンピックにひけをとらないほど「超エリートスポーツ」と化しています。>と述べました。つまり、「障害者スポーツ」が「スポーツ」として認められる時代になってきているということです。その代表的な例が、昨年8月の陸上世界選手権で、義足ランナーとして初めて出場したオスカー・ピストリウスです。実は、世界選手権以降、障害者スポーツの関係者でも、またスポーツの関係者でもない方から、彼の名を聞くことがしばしばあるのです。これまでは「障害者スポーツ」と言っても、誰ひとりとして名前が挙がらないことがほとんどでした。それが、海外の選手であるピストリウスの名が出てくるようになったのです。

 しかも「義足であれだけ走るなんて、すごいよね」と、彼の身体能力の高さを評価する意見が多い。これまでは「義足」=「障害者スポーツ」=「スポーツとは別のもの」という認識があった人たちの中にも、ピストリウスのあの走りを見て、「義足」でもトップアスリートとなり得るんだ、さらには、「義足」で「スポーツ」をする、という考えが高まってきているということでしょう。まさに「障害者スポーツ」が「スポーツ」として認識されつつあることを示している現象です。

 そもそも障害者スポーツの競技者、特にパラリンピックを目指している選手は、生活の全てをかけて自分たちが情熱を注いでいるものは「スポーツ」であり、自分たちは「アスリート」であるという自覚を持っています。実際、取材をしても、競技への思い入れや、世界の舞台を目指そうとするチャレンジ精神、そしてトレーニングの過酷さは、一般スポーツのアスリートのそれらと何ら変わりありません。

 先述したピストリウスにしても、健常者と同じレースで走ることについての賛否両論はあるにしろ、彼の走りを見て、「障害者」というイメージを抱いた人はどれだけいたでしょうか。純粋に「ランナー」として彼を見ていた人は少なくなかったのではないでしょうか。走りの力強さ、美しさ、鍛え抜かれた身体、彼のすべてが、まさにアスリートそのものでした。

 つまり、「障害者スポーツ」に対して「障害者」という概念が失われつつあるのです。そのため、最近では「障害者スポーツ」という言葉に違和感を持つことが少なくありません。ところが、日本では「障害者スポーツ」という言葉以外は存在しないことから、それを使用せざるを得ないのです。スポーツとして成長し続ける「障害者スポーツ」の現状と、「障害者スポーツ」という言葉がどんどんかい離していることに居心地の悪さを感じています。

 ユニバーサル社会の実現に向けた言葉の選択

 そこで、別の呼び方も出ています。適合させるという意味での「アダプテッドスポーツ」はその代表例です。しかしよく考えてみると、別の名前を設けること時点で、やはり「スポーツ」とは別のものという認識がそこにはあることは否めません。では、他にどんな方法があるのかといえば、答えは単純です。「スポーツ」の中に入れてしまうのです。そのうえで、「バスケットボール」「サッカー」「バレーボール」とあるように、「車いすバスケットボール」「ブラインドサッカー」「シッティングバレーボール」と、競技・種目で分ければいいのです。

 これは何もエリートスポーツだけに言えることではありません。リハビリという観点からも、わざわざ「障害者スポーツ」と言う必要性はどこにもありません。実際、現場で「さあ、これからリハビリの一環として、障害者スポーツをやりましょう」という人は皆無に等しいのではないでしょうか。「さあ、これからリハビリの一環として、車椅子バスケットをやりましょう」と言うことの方が圧倒的に多いはずです。

 翻って、障害者スポーツという言葉が生まれたころのことを振り返ってみると、当時は障害者がスポーツをすることなど、考えられなかった時代です。そのため、障害者にもできるスポーツがある、スポーツをする権利があるということを広く認知させるためには「障害者スポーツ」という言葉は必要不可欠でした。「障害者スポーツ」という言葉は、障害者自身の生活を変えるだけでなく、障害者の社会における存在感さえも変える力があったのです。しかし、現在は既に障害者がスポーツをするということにおいては、そのレベルや人数、感情的なものはどうであれ、ほとんどの国民は認識しています。ですから、そろそろ「障害者スポーツ」という言葉は時代にそぐわなくなってきているわけです。時代が変われば、呼称も変わる。どの分野においても、それは当然のことです。

 昨年8月に施行された「スポーツ基本法」にも「障害者スポーツ」という言葉は一度も出てきません。例えば基本理念には「スポーツは、障害者が自主的かつ積極的にスポーツを行うことができるよう、障害の種類及び程度に応じ必要な配慮をしつつ推進されなければならない」とあります。国の法律においても障害者がするのは「スポーツ」であり、「障害者スポーツ」という言葉を使用していないわけです。しかし、私たちの認識では「スポーツ」と「障害者スポーツ」が分けられて存在しています。それはやはり「障害者スポーツ」という言葉の存在が大きいのです。

 私は今後、障害のある子どもたちに、自由にスポーツを楽しむ環境を整えたいと考えています。その時、子どもたちに「障害者スポーツというものがあるんだけど、やってみない?」と言うのと、「車椅子バスケットというスポーツがあるんだけど、やってみない?」と言うのとでは、その子がもつイメージに天と地の開きが出てきます。「障害者スポーツ」と聞いた途端、自分に障害があることの方に意識が強く働くかもしれません。また、障害のある自分は「スポーツ」ではなく、「障害者スポーツ」をやるんだ、と認識し、「スポーツ」をやる健常者との間に、かえって壁をつくってしまうかもしれません。しかし、「スポーツ」と言った場合は、障害の有無にかかわらずスポーツをするんだ、という意識に変えられる可能性があります。また、障害のない子どもに対しても、「障害者スポーツ」という概念ではなく、「スポーツ」という概念で、とらえてほしい。そうであるならば、やはり「障害者スポーツ」ではなく、「スポーツ」と言ってみたらどうでしょう。さて、皆さんは、「障害者スポーツ」と「スポーツ」、違和感を感じませんか?


伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。1991年に車椅子陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。11年8月からスタートした「The Road to LONDON」ではロンドンパラリンピックに挑戦するアスリートたちを追っている。