第1190回 背筋が寒くなる 尚弥のザ・コンプリート・ゲーム
世界戦でフルマークに近い判定勝ちを収めたボクサーの口から「倒すのは難しかった」という言葉が飛び出すのは、珍しいことではない。だが、次の言葉は初めて耳にした。「倒しにいかないことがこれほど難しいんだな、という発見はあった」
言葉の主は日曜日の夜、名古屋のリングで5度目の世界スーパーバンタム級4団体統一王座の防衛に成功した井上尚弥である。
「キャリアで最強の選手」(大橋秀行会長)と陣営が警戒したWBA同級暫定王者のムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)を歯牙にもかけなかった。
スワローズ監督時代の野村克也は「マンモスにもアキレス腱はあるやろう」と独特の言い回しで、弱者の視点に立って強者のウイークポイントを探すのに余念がなかった。
マンモスならぬモンスターにもウイークポイントはあるのか。付け入るスキがあるとすれば、それはどこか……。
ボクサーの戦力を評価する上で、専門家はしばしば五角形や八角形のレーダーチャートを使用する。五角形の場合は、一般的に①パワー②スピード③テクニック(攻守)④スタミナ・タフネス⑤インテリジェンス(経験値含む)の5つの要素で構成される。これを井上に当てはめると、実にきれいなペンタゴンを描く。しかも最大値で。
とはいえモンスターも人の子である。93歳になった業界の大立者ボブ・アラムがいみじくも口にしたように、ナオヤ・イノウエは本当に「コンプリート」、すなわち完全無欠なのか。この国には「蟻の一穴」という言葉もある。
井上は過去に2度、ダウンを喫している。最初は昨年5月6日、東京ドームでのルイス・ネリ(メキシコ)戦。2度目は今年5月5日(日本時間)米ラスベガスでのラモン・カルデナス(米国)戦。被弾したのは、いずれも視界の外からのレフトハンドブロー。ネリは1ラウンド、カルデナスは2ラウンド。立ち上がりに虚をつかれた。
このことからも分かるように、モンスター相手に千にひとつの勝機を見出そうとすれば、少々強引であってもパンチの軌道が読まれる前に仕掛けるしかない。乱気流に巻き込み、後は当たるも八卦、当たらぬも八卦。そのくらいの割り切りと覚悟がなければ、奇跡は起こせない。
話を日曜日の試合に戻そう。井上は序盤からスピードで圧倒し、「今回は判定決着でもいい」という事前のファイトプラン通りに、着実にポイントを積み重ねていった。途中で距離を詰められないアフマダリエフが「来い! 来い!」と挑発するシーンがあった。私の目には「もう降参です」と白旗を掲げたように映った。リアクション・ボクシングの限界である。
モンスターは暫定王者の戦力の全てを無力化し、無傷のまま試合を終わらせた。ザ・コンプリート・ゲーム。人はここまで完璧にミッションを遂行できるものなのか。見ようによっては、背筋が寒くなるほど恐ろしい試合だった。
<この原稿は25年9月3日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>
