第1192回 プラザ合意から40年……Jリーグは最良の副産物

facebook icon twitter icon

 今から40年前の1985年は、日本を揺るがす事件や事故、政策転換が相次いだ。まずは事件。6月18日、悪徳商法で世間を騒がせていた豊田商事会長が、報道陣が取り囲む中、大阪市内の自宅マンションで殺害された。あれは劇場型犯罪の走りではなかったか。

 

 続いて事故。8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客520名が犠牲になった。「安全神話崩壊」という新聞の見出しが、今も目に焼き付いている。

 

 そして“失われた30年”の遠因となるプラザ合意。これは9月22日だ。財政赤字と貿易赤字の“双子の赤字”に直面する米国は、ドル高是正をG5の国々に求めてきた。為替市場への協調介入の結果、円の対ドル相場は240円台から、1年で150円台に。87年には120円台にまで急騰した。

 

 外需から内需へ。金融緩和であふれたマネーがバブル経済を発生させ、90年代初頭に崩壊の憂き目を見るのは、同時代人にとっては痛恨事である。

 

 スポーツの世界も、何かとにぎやかだった。プロ野球では阪神が21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ分立以降初の日本一を達成した。サッカーにおいても、プラザ合意から約1カ月後の10月26日、国立競技場が6万人超の観客で埋まる大一番があった。W杯メキシコ大会出場をかけたアジア最終予選の韓国戦である。

 

 

 当時、アジア予選は東西に分かれており、両地区から1カ国(地域)のみに本大会への出場権が与えられた。悲願にあと一歩と迫った日本だが、ホームでもアウェーでも惜敗し、W杯出場の夢は断たれた。

 

 不完全ながらも韓国は2年前にリーグをプロ化しており、スパイもどきのスカウティング活動を展開していた。日本代表合宿にも偵察員を送り込み、「全て丸裸にされていた」と後年、主力のひとりは苦虫を噛み潰すように語った。

 

 しかし、この手痛い敗北が、プロ化への機運を生む。Jリーグの生みの親となる川淵三郎がJSL総務主事に就任するのは、その3年後の88年8月。協会内にプロリーグ準備検討委員会が設けられたのは、4年後の89年6月。

 

 世はバブル経済の真っ只中。三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターを、ソニーはコロンビア映画を買収するなど、ジャパンマネーが世界を席捲した。企業の余剰資金は、国内においてはメセナやフィランソロピーという美名の下、社会貢献や地域振興に振り向けられた。

 

「地域密着」の旗を掲げ、豊かなスポーツ文化の醸成を目指すとした川淵の理念は、新リーグ創設の追い風となった。後に川淵は「バブルがもう3年早くはじけていたら、Jリーグはできなかっただろう。運が良かった」と語った。

 

 だが、運を呼び込んだのは川淵を中心に練り上げられた骨太の理念であり、「スポーツが変われば地域が変わる。地域が変わればこの国も変わる」という壮大なミッションである。激動の年から40年。「風が吹けば桶屋が儲かる」の例えに倣えば、Jリーグはプラザ合意がこの国にもたらした最も良質な副産物だったと言えるかもしれない。

 

<この原稿は25年10月15日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

 

 

facebook icon twitter icon
Back to TOP TOP