☆五輪特別編☆自然体の歓喜、求道者の苦悶<後編>

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 アテネ五輪100キロ超級、決勝。
 相手はロシアの“怪豪”タメルラン・トメノフ。まるで白熊のような体をしたこの男は、このクラスでも破格のパワーを誇る。184センチ、110キロの鈴木桂治の体が華奢に見える。
 実はアテネに行く前、彼は親友の棟田康幸に最重量級での戦い方を訊ねた。棟田は世界選手権を含めて3度、この大男と戦い、3度とも勝っている。
<この原稿は2004年9月16日号の『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

「100キロ級と100キロ超級とでは力強さが全然、違う。力が強いため、どうしてもこちらは(畳に端まで)追い詰められる。技に入られた時の一発の威力は100キロ級の比ではない。組み手にしても奥襟を掴んだり背中を持ってくる。これにどう対応するか。あの緊張とスリルはちょっと言葉にはできないほどです」

 開始早々、相撲の寄り切りのような格好で畳の外に押し出された。前に出る圧力の差は歴然としていた。
 しかし、五輪初制覇にかける24歳は冷静さを失わない。直後、目にも止まらぬ小内刈りでロシア人を横倒しにした。ポイントにこそならなかったが、これでタイミングを掴むことに成功した。
 組み勝って相手の身体を揺さぶることは難しい。しかし、前に出る力を逆に利用することならできる。足技をコントロールする管制塔のセンサーが作動した。
 1分17秒、前に出ようとしたロシア人の右足を鋭く刈った。電光石火の小外刈り。またしても黄金の左足だ。内の次は外。朽木が倒れるように大男が横転した。次の瞬間には日の丸が翻るスタンド向けて、もうガッツポーズをつくっていた。
 世界最高の足技――。悲願を達成し、日本柔道の威信を守ったのは、やはり“伝家の宝刀”だった。

 彼を初めて見たのは、今から6年前のことだ。高校3年で臨んだ講道館杯で史上最年少優勝を飾った。まだ体の線も細く、組み手に力強さは感じられなかったが、足技は恐ろしくよく切れた。

 国士舘大学に進学後、しばらくして話を聞きにいった。忘れられないのは当時、柔道部の助監督をしていた山内直人(現監督)の一言だ。
「あの足技は天性のものです。世界と戦う時に必ず大きな武器となります」
 その予言が的中した。
 少年時代はサッカーをやっていた。ポジションはFW。茨城県では名の知られたFWで、Jリーガーになろうか、柔道で五輪を目指そうか悩んだ時期もある。最終的には柔道を選択した判断は正解だったが、仮にサッカーの道に進んでいても、彼の身体能力と精神的なタフネスをもってすれば、日本代表クラスのストライカーになっていたかもしれない。

 今年の2月、神戸市内で谷亮子と食事をする機会があった。鈴木桂治の足技について訊ねると、名解説者でもある彼女はこう言った。
「足が生きている選手はたくさんいるけど、桂治君の場合は指が生きているのよ」
 ここまで聞けば、本人に直接会って確かめるしかない。「指が生きている」とは、どういうことなのか。乱取りの相手はできなくても、足を貸すぐらいならできる。
 鈴木桂治のレッスン。
「普通の選手の場合、たとえば小内刈りをかける際、足の裏でくるぶしの裏をポーンと叩く感じなんです。ところが僕の場合は、草刈り鎌みたく、指で刈り込むんです。これは斉藤(仁)先生から教わったものです」
 続いて実技指導。ほんの一瞬、軽く足をかけられただけで80キロ近い私の体は宙に浮いた。私の足首に指でフックされた跡が生々しく刻まれた。

「頭が真っ白になりました」
 金メダルの感想を、鈴木桂治はこう述べた。「長い4年間だったか?」と問うと、「今考えると短かったですね」と答えた。
 忘れられないのは4年前のシドニーでのワンシーンだ。鈴木桂治は井上康生の練習パートナーとして同行を許された。
 来る日も来る日も投げられ役。野球で言えばバッティング・ピッチャー。万が一にも速いボールや鋭い変化球を投げて、味方の打者の調子を狂わせてはいけない。打者の要求しているコースに手頃なスピードのボールを投げ、快音に協力するのが彼らの仕事だ。それと同じ任務を20歳の大学生は任された。2つ年長のライバルがオール一本勝ちで金メダルを手にしても、心の底から喜ぶことはできなかった。オリンピックの柔道会場にまでやってきながら、トレーニングウェア姿の自分が情けなかった。
 屈辱の日々を彼はこう振り返った。
「次は絶対にオリンピックに出る。何が何でも出る。そう誓いました。あの時の悔しさがあるから今の僕があるんだと思っています」

 運命とは皮肉なものだ。
 4年前、自らのスパーリング・パートナーだった相手が、クラスを上げて自らがエントリーしたいと考えていた100キロ超級で王者となり、自らはメダルにも届かなかった。
「頭の中が真っ白というのが、一番いい表現ですね」
 絶望の谷に転落した男は、奇しくも至福の頂に上りつめた男と同じセリフを口にした。
 これまで世界選手権、五輪合わせて24戦全勝。そのうち21勝が一本勝ち。大舞台での井上康生の不敗神話は、皮肉なことに神話の舞台アテネでピリオドが打たれた。

 敗因をあげればキリがない。体はボロボロの状態だった。右腕には“電流”が走り、左ひざは屈伸するたびに悲鳴を発し続けた。
 これでは相手をコントロールすることも強く踏み込むこともできない。内股にいつもの切れを欠いたのは、このためだ。
 組み手も欧州勢に研究され尽くしていた。井上康生は引き手を充分にとらなくても内股で相手を叩きつける技術を有するが、欧州勢は微妙にタイミングを狂わせる技術をここに合ったやり方で習得していた。
 不吉な予感を抱いたのは大会前だ。彼から映画『ラストサムライ』が好きだという話を聞いた時、過剰なまでの美学が裏目に出ないかと案じた。一言で言えば、あれはサムライが自らの美学に殉じる映画だ。その根底には“滅びの美学”がある。

 本来、井上康生ほどの柔道家であれば、早めにプレッシャーをかけて先にポイントを取れば、もっと楽に試合を運ぶことができる。ポイントを逆転するためには終盤、相手は危険を承知で技を仕掛けなければならず、そこを突けば少ない仕事量で多大な報酬を得ることができる。
 しかし、彼はいわゆる、こうした効率のいい柔道、燃費のいい柔道に興味を示さない。愚直なまでに「一本」にこだわり続ける。それが柔道であり、それを追求し続ける我が身だからこそ誇りが持てるのだ。
 ここから先は、もう己の尊厳との戦いである。ただし自らの美学を追求して、なおかつ結果を出すには恐ろしいまでの自己練磨と求道の心が必要になる。もう一度頂を極めれば、それで良しというものではない。登頂ルートにこだわる孤高のアルピニストのように「柔」の真理を求め続ける。それは孤影を引きずる終わりのない旅である。

「金メダルをとったといっても、このクラス(100キロ超級)は僕のクラスじゃない。次は100キロ級で世界を獲りたい」
 金メダルをバッグにしまい込んだ鈴木桂治はこう言い残してアテネを去った。これは依然としてこの階級では第一人者である男に向けた、新たなる“宣戦布告”でもある。
 果たしてこの言葉を井上康生がどう受け止めるのか。王座から転落したとはいえ、稀代の柔道家が失意の淵でたたずむ姿は似合わない。アテネの明暗は実は互いの尊厳をもかけた“北京死闘編”の序章に過ぎないのである。

(おわり)
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