今回は、鈴木桂治、井上康生の2人が明暗を分けたアテネ五輪、柔道重量級にスポットを当てた2004年の原稿を紹介します。
 この大会、100キロ級で連覇を狙いながら、まさかの一本負けを喫した井上康生さんは08年に引退。現在は、母校・東海大学の副監督、全日本ではコーチとして後進の育成に携わっています。一方、アテネ五輪100キロ超級で金メダルを獲得した鈴木選手は3大会連続の五輪出場を目指し、5月12日の全日本選抜体重別選手権に出場予定です。国内のライバルたちとロンドン五輪行きの切符を懸けた戦いに臨みます。
<この原稿は2004年9月16日号の『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

 金メダルを無造作にズボンのポケットに突っ込んだままベッドに横たわった。翌朝、目が覚めて不安になった。
「昨日のことは夢だったんじゃないか……」
 慌ててズボンのポケットをまさぐった。冷んやりとした手触りとともに黄金色の輝きが目に飛び込んできた。
「……ああ、俺は本当に勝ったんだ」
 金メダルを掌に乗せて、しばしの間、昨夕の感激の余韻に浸った。宿舎に差し込む日射しが、心なしかいつもより眩しく感じられた。

 前日、100キロ級の井上康生がまさかの敗北を喫した。同じ日に2度も天井を仰ぎ、メダルにすら届かなかった。日本柔道界の“本丸”の落城は、金メダルラッシュに沸く柔道選手団に冷や水を浴びせる結果となった。いくら軽量級と女子でメダルを大量に獲得しても、男子の重量級が総崩れとあっては喜びも半減する。柔道が初めて五輪競技として採用された東京五輪では、4階級のうち3階級を制しながら、無差別級決勝で日本の神永昭夫がオランダのアントン・ヘーシンクに袈裟固めで押さえ込まれたことで、柔道ルーツ国の威信は地に墜ちた。その意味で100キロ超級の鈴木桂治は重量級最後の砦としての重責を担っていた。

 鈴木桂治は本来、100キロ超級の選手ではない。今年4月、福岡で行なわれた選抜体重別選手権で宿敵・井上康生と対戦することなく準決勝で敗れた。左手薬指の負傷が組み手に微妙な影響をもたらした。この時点で事実上、100キロ級での五輪出場の夢は絶たれた。
「情けない。自分にはまだ康生さんと戦う資格がないということ。これが僕の実力です」
 試合後の記者会見。こちらが驚くほどさばさばした口調で彼は答えた。うつむき加減ではあったが涙はなかった。放心の色もなかった。むしろ自分自身に対してあきれているといった風情だった。
 この敗北で鈴木桂治の進退きわまった。重量級での残りの枠は100キロ超級のみ。しかし、このクラスには親友で世界チャンピオンの棟田康幸がいた。このクラスで五輪の出場権を得るには、最後の代表選考会となる3週間後の全日本選手権で圧倒的な強さを披露して優勝するしか道はなかった。

 4月29日、東京・日本武道館。桜の散った九段下の歩道に不精ひげをのばした男の姿があった。生暖かい風を払いのけるように、歩きながら肩を何度も揺すった。
 棟田康幸との準決勝はアテネへの最後の切符をかけた事実上の代表決定戦となった。手の内を知り尽くしている両雄はともに決定的なポイントを奪えなかったが、組み勝った鈴木桂治に軍配が上がった。
 そして迎えた決勝戦。相手はこの大会、4連覇を目指す宿敵・井上康生。前年の対決では内股で一本負けを喫している。悔しいことに、自らが宙を舞うシーンがこの大会のポスターに採用されていた。再び一敗地に塗れれば、このポスター前での記者会見を余儀なくされる。これ以上の屈辱はない。

 井上康生対鈴木桂治。日本最強を決めるこの2人の対決は、同時に世界最強の柔道家を決める戦いでもあった。
 一瞬のスキが明暗を分ける。いや生死をも分ける。
 前半は井上康生のペースだった。得意の内股を連発し、勝負を決めにかかった。こらえようとして頭を下げれば、さらに二の矢、三の矢が飛んでくる。命綱とも言える吊り手が切られれば、嵐の中をさ迷う小舟のように、船底からひっくり返され、二度と生還はできない。
 かろうじて宿敵の猛攻に耐えた鈴木桂治は、吊り手を下から突いて距離を取り、組み手を修復した。芸術的とも言える得意の足技も、組み負けてしまっては窮余の一策に過ぎなくなる。逆に組み勝てば、伝家の宝刀を抜いて、自在に相手の足を刈ることができる。
 挑戦者は残り2分を切ったところで勝負に出た。左の出足払いでひざをつかせ、続いて左の小内刈りでバランスを崩させた。この直後、防戦一方の井上康生に「注意」が与えられ、初めて優劣が明らかになった。長い長い6分間の戦いを制した鈴木桂治に、初めてオリンピックへの出場権が与えられた。

「自然体でやりますよ」
 アテネに出発する前、鈴木桂治は私にこう言った。相手を過度に意識しない。秘策に頼らない。そのことを自らに言い聞かせて決戦の地に向かった。
 24歳がこうした境地に至ったのには理由がある。福岡での敗北が“良薬”の役割を果たした。不必要な“斜眼帯”を取り払ったと言うこともできる。
 福岡では“打倒・井上康生”を意識し過ぎる余り、自らの持ち味も殺してしまった。「康生さんとやるまでは負けられない」との意識が強く働き過ぎて、攻めの柔道ではなく受けの柔道になってしまった。
 福岡では井上康生の兄・智和にそこを突かれた。谷落としをくらってのまさかの一本負け。硬い氷柱が小さな金属のビスが打ちこまれただけで木っ端微塵に砕け散るように、過剰な使命感は畳の上で粉砕された。この時の敗北の記憶を彼は教訓にかえようとしていた。

 100キロ級と100キロ超級とでは重さも違えば、当たりの強さも違う。昨年秋の大阪での世界選手権、無差別級で優勝飾っているとはいえ、100キロ超級とはまた勝手が違う。
 しかし、そのことを意識し過ぎると、福岡の轍を踏む。思索での柔軟性を失えば、組み手もどこかぎこちなくなる。相手の弱点を突くのではなく、自らの長所をいかす――。その不退転の決意が「自然体」という言葉に凝縮されているように感じられた。

(後編へつづく)
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