「これが中京の4番なら、僕はもっと(上に)行けると思った」
 祝福の言葉にはイチローらしいウイットが含まれていた。さる4月28日、北海道日本ハムの稲葉篤紀がプロ野球史上39人目の通算2000安打を達成した。周知のように稲葉とイチローはともに少年時代、愛知県豊山町にあるバッティングセンター「空港バッティング」に通い詰めていた。
 稲葉がイチローの存在に気付いたのは彼が中学1年の時だった。1学年下のイチローは小学6年生。稲葉の回想。
「イチロー君が打っている姿を何度か見たのですが、木のバットで120キロのストレートを100%の確率で芯に当てていた。これにはビックリしました」 

 その後、稲葉は中京(現中京大中京)、イチローは愛工大名電と愛知県下の強豪校に進学する。2人の直接対決は稲葉が高校3年時の夏の県予選。決勝で対戦し、名電が5対4で勝って甲子園に出場した。

 イチローの「中京の4番」という物言いにはある種のリスペクトが感じられる。春夏合わせて11回の甲子園制覇は全国最多。夏の決勝は7戦7勝。プロ野球界にも、これまでに70名以上の選手を送り込んでいる。

 中京の強さのシンボル――それはユニホームの立ち襟だった。「学術とスポーツの真剣味の殿堂たれ」という建学の精神がしのばれ、憧憬と同時に畏怖の対象でもあった。

 同校から阪急にドラフト1位で入団し、台湾やヤクルトでもプレーした野中徹博も伝統の立ち襟に憧れて野球部に身を投じたひとり。高校時代は「エースで4番」だった。
「僕が入部した時、部員は100人を超えていた。立ち襟のユニホームに袖を通せるのはベンチ入りの選手だけ。同じ仲間でも、このユニホームを着ると頼もしく映ったものです」

 東海大で臨時コーチを務める元巨人の後藤孝志も「中京の4番」だった。
「同じ立ち襟のユニホームでも試合用と練習試合用とは別なんです。試合用のユニホームを着ることは僕らの誇りでした」

 ところが、校名変更(中京から中京大中京)とともに立ち襟は消え、ユニホームも一新された。稲葉は語っていた。
「あれがなくなって寂しくなりましたね……」
 プロ野球でも復古調のユニホームが再登場しているご時世なのだ。イチローの目にも焼き付いているであろう伝統の立ち襟の復活を密かに望んでいるのはOBたちだけではあるまい。

<この原稿は12年5月2日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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