さる4月6日の横浜DeNA戦で広島の前田健太、5月30日の東北楽天戦では巨人の杉内俊哉がノーヒット・ノーランを達成した。
 しかし上には上がいる。元広島の外木場義郎は完全試合を含む3度のノーヒット・ノーランを達成している。まさに「ザ・レジェンド」だ。

 振り返って外木場は語る。
「完全試合は市民球場での大洋戦。1968年9月14日のことです。(完全試合を)意識したのは7回くらいかな。
 最初はベンチから“ナイスピッチング!”と声が出ていたのですが、7回くらいからベンチが水を打ったようにシーンと静まり返った。僕よりもまわりのほうが緊張していた。9回は3人とも三振に切ってとりました。全てストレートで。緩いボールを打たれて悔いを残すのが嫌だったんです」

 ちなみに、プロ野球界でノーヒット・ノーランを3度達成したことがあるのは外木場以外には「伝説の名投手」沢村栄治(元巨人)だけだ。しかし沢村は完全試合を達成していない。いかに外木場の記録が偉大であるかが理解できるだろう。
 これだけの偉業をなしとげていながら、外木場はまだ野球殿堂入りを果たしていない。今年もエキスパート部門で最多の28票を集めたものの、当選必要数にわずか1票足りなかった。
 75年の赤ヘル初Vも彼の右腕なくしては実現しなかった。この年、彼は20勝をあげ最多勝、沢村賞などに輝いた。未だに野球殿堂入りを果たしていないことに違和感を覚えるのは私だけだろうか。

 話を完全試合に戻そう。外木場の偉業から3年後の71年8月21日、後楽園球場での西鉄戦で史上12人目のパーフェクトゲームを達成したのが、中大で沢村拓一(巨人)を指導したことで知られる高橋善正(元東映)である。
 投球数、わずか86。奪三振1ながら内野ゴロ15。外木場の完全試合が力によるものなら、高橋のそれは技によるものだった。

 高橋の回想。
「僕よりも守っている連中が6、7回になると意識し始めましたね。“善正、完全試合だぞ!”と冗談半分で言ってた連中が途中から何も言わなくなった(笑)。
 逆に“オマエらの方が緊張してるじゃないか!”と思ったよ。僕が意識し始めたのは8回くらいかな。まわりがザワザワし始めたので……。
 西鉄は若いバッターが多かったから遊び半分で指にはさんで投げたスライダーとかにポンポン引っかかってくれた。“シュートが来る前に打っちゃえ!”と外のボールに手を出してくれた。ほとんどがノックで転がしたような打球だったね」

 スイスイ投げていた高橋が肝を冷やしたのが9回、先頭打者の米田哲夫が放ったセンター前へと抜けそうなライナー性の打球、これをセカンドの大下剛史が横っ飛びで、グラブにおさめた。
「まぁギリギリのところをよく捕ってくれましたよ」
 その場面を思い浮かべるように高橋はしみじみと語った。

 最後の“ミスター・パーフェクト”は元巨人の槇原寛己である
94年5月18日。福岡ドームでの広島戦で大記録を達成した。
 実は平成に入ってプロ野球で唯一の完全試合達成の裏には、こんなエピソードがある。
 槇原は明かした。

「実はその時、僕は前々日に門限を破って中洲で飲んでいた。ペナルティーとして外出禁止をくらっていたんです。
 福岡は1年に1度しか行かないような場所だから、挨拶がてら行きたい店があったんです。門限が12時だったので、それまでに1度ホテルに戻って、深夜1時頃に抜け出したところをピッチングコーチの堀内恒夫さんに見つかってしまったんです。
 僕はメガネをかけて完璧に変装して出かけたつもりだったんですが、体が大きいから一発でバレてしまったんです。
 でも、僕も当時30歳。“子供じゃあるまいし、外出禁止1カ月はないでしょう? 罰金なら払いますけど”と文句を言ったら“明日、先発だから、その結果を見て決めよう”と。これは気合が入りました。それで投げたら、完全試合(笑)」
 ケガの功名ならぬ“門限破り”の功名ということか。人間、何が幸いするかわからない。

「力だけではダメ。運だけでもダメ。両方が揃わないと完全試合は達成できません」
 それが外木場の結論である。“飛ばないボール”を導入して2年目の今季、そろそろという気がしないでもない。

<この原稿は2012年5月4日号の『週刊漫画ゴラク』に掲載された原稿を再構成したものです>

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