オールスターゲームのことをメジャーリーグでは「ミッドサマー・クラシック」(真夏の祭典)と呼ぶ。ピッツバーグとアーリントンで2度ほど取材したことがあるが、その盛り上がりぶりは「フォール・クラシック」(秋の祭典)と呼ばれるワールドシリーズに勝るとも劣らないものがあった。
 日本ではオールスターゲームのことを「夢の球宴」と呼ぶ。これはこれで味わい深いネーミングである。「3試合を1試合にすれば、もっと価値が出るのに……」という声もあるが、財政難のNPBにとっては、日本シリーズと並ぶ数少ないキラーコンテンツ。貴重な収入源の縮小には抵抗があるようだ。

 問題は試合数よりも「夢の球宴」の中身である。交流戦がスタートして8年目を迎えたこともあってセ・パの対抗色が薄れてきた感は否めない。年長の打者が若い投手に向かって「ストレート勝負で来い!」などと無邪気に挑発したりする風景には違和感を覚える。力対力の真っ向勝負と言えば聞こえはいいが、そこに真剣勝負の醍醐味はない。

 オールスター男と言えば江夏豊にとどめを刺す。1971年の第1戦、西宮球場での9連続奪三振は今でも語り草だ。私は小学校高学年だったが、文字通り手に汗握りながら、テレビにかじりついた記憶がある。

 実は江夏の球宴での連続奪三振記録は「9」ではなかった。前年から数えると「14」にまで伸びていたのだ。江夏は第3戦のマウンドにも上がった。江藤慎一から三振を奪い、15連続。ここで打席に入ったのが野村克也。コツンと当てるだけのバッティングで二塁ゴロに倒れた。江夏は後に「ノムさんらしい」と苦笑いを浮かべていたが、野村には「パ・リーグで育った人間として、これ以上恥をかくわけにはいかない」との切羽詰まった思いがあったようだ。

 今なら、さしずめ野村は「KY」と非難されるだろう。しかし、このエピソード、所属するリーグへの誇りや忠誠心が感じられて、私は決して嫌いではない。野村はリーグの名誉を背負っていたのだ。また視点を変えれば、戦後初の三冠王がプライドをかなぐり捨てて軽打した事実は、連続奪三振記録以上に江夏の偉大さを物語るものでもあった。力任せの肝試しだけが「夢の球宴」ではない。

<この原稿は12年6月27日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
◎バックナンバーはこちらから