第288回 国内情勢とペルー協会の混乱 ~ホルヘ・ヒラノVol.23~
ワールドカップ南米予選開始前、1985年4月18日にペルーの大統領選が行われた。当選したのは、APRA(アメリカ人民革命同盟 通称“アプラ”)のアラン・ガルシアである。
APRAは1924年に創設された反帝国主義、社会正義を掲げた左翼政党だ。目的として掲げたのは、アメリカ大陸におけるアメリカ合衆国の影響の排除。中南米に共通する欧州系を祖とする一部の富裕層の支配から労働者、農民を解放することだった。
アラン・ガルシアは1949年生まれ、大統領就任時で36才。若く弁舌が巧みな彼は、ラテンアメリカのケネディと称されることもあった。
7月28日、アラン・ガルシアが大統領就任。ペルー代表が南米予選最終節でアルゼンチン代表と引き分けた直後である。ペルー代表はワールドカップ出場権を得ることができず、プレーオフに回ることになっていた。
新大統領となったアラン・ガルシアは、国家による経済主導、対外債務返済を輸出量の10パーセントに制限するなどの方針を明らかにした。ペルーの国家財政は破綻する中で、スポーツ——サッカーは後回しにされた。
ホルヘ・ヒラノはこう振り返る。
「金銭的な問題もあり、(ペルーサッカー)協会は全く機能していなかった。協会は、事実上解体に近い状態に追い込まれた。代表チームの練習場所、宿舎さえ決まらなかった。その時点で空いてる場所を探して活動するしかなかった」
同じく代表選手であったフランコ・ナバーロの証言も当時の混乱ぶりを裏付ける。
「アルゼンチン代表戦の直後にペルーで大統領選挙があり、アラン・ガルシアが勝ち、サッカー界の指導部が全員辞任した。そこで、私たちは練習ができない状態になった。というのも、(コロンビアのインデペンディエンテ・デ・メデジンに所属していた)自分のように国外クラブでプレーしていた選手を招集したのは〝民間企業〟だった。連盟会長が不在となったため、そのイニシアティブを取る人間が不在となり、私たちはそれぞれのクラブに戻るしかなかった」(infobaeより)
フランコ・ナバーロの証言
大統領選挙がアルゼンチン戦の直後だったというのは、フランコ・ナバーロの誤解である。ここで目を引くのは、〈国外クラブでプレーしていた選手たちを招集していたのは“民間企業”だった〉という一節である。
ペルーに限らず、少なくない国で“代表戦”の招集に関して摩擦が起きていた。選手の給与を支払う所属クラブは、代表選手を出すことを渋っていた。ペルー代表では、国外クラブ所属クラブの選手の経費を“民間企業”が払っていたようだ。ようだと書くのは、手を尽くして調べたが、詳しい資料が残っていないからだ。
ペルーサッカー協会の記録を見ると、85年からホルヘ・ケイロス・カストロが、同年11月18日にオスワルト・ラミレスが会長に就任している。ホルヘ・ケイロス・カストロの辞任時期ははっきりしないが、空白時期があったと思われる。ペルー代表にとって不幸だったのは、この空白期間に、ワールドカップ南米予選のプレーオフが組まれていたことだ。
10月27日、ペルー代表はチリの首都、サンチャゴ・デ・チリに入っている。ヒラノは、チリ代表との試合はいつも激しいものになると言う。
「チリに入ったときから、ホテルの周りを車が取り囲む。そして、クラクションをずっと鳴らし、選手を眠らせない」
国境を接しているペルーとチリは過去に戦火を交えたこともあり、試合は必然的に国家威信を掛けた戦いとなる。
ヒラノが意外に思ったのは、招集された選手の中に、ゴールキーパーのエウセビオ・アカスソが含まれていたことだった。
公式戦から遠のいていたGK
アカスソは、72年から76年にウニオン・ウアラル、77年からウニベルシタリオに所属していた。ペルー代表には79年から招集され、82年のワールドカップに出場した。
アカスソもまた、ペルーサッカー協会の混乱ぶりをこう語っている。
「(ペルーサッカー協会)幹部たちは、(アルゼンチン戦後も)引き続き、チリ戦に向けて代表活動が継続されると言った。しかし、その約束は守られなかった。ペルーに帰国すると選手たちはばらばらになった。私は練習するクラブがなかった。私と同じ状況の者が何人もいた」(tromeより)
そこで彼はアルゼンチン戦の後、ボリビアのボリーバルに移籍した。
しかし——。
「ボリーバルは、当時としてはかなり高額の契約金、高給、家と車を提供した。ところがサッカー協会が私の移籍証明を出さなかったんだ。(アルゼンチン代表戦の)6月30日から(チリ代表戦の)10月27日まで公式戦に出場できなかった」
国を跨いだ移籍の場合、選手及びクラブ間の合意に加えて、移籍元のサッカー協会が発行する「移籍証明書」がなければ、移籍先のサッカー協会での選手登録ができない。
試合前、ペルー代表の先発メンバーが発表された。選手の中から驚きの声が上がった。ゴールキーパーが、しばらく公式戦に出場していないアカスソだったのだ。
(つづく)
田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)
代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。