最近、気に入っている言葉がある。言葉の主はフランスの細菌学者ルイ・パスツール。「偶然は準備のできていないものには微笑まない」。スポーツを取材していると、この言葉が骨身に沁みる。
 近年の五輪では北京での男子400メートルリレーが頭に浮かぶ。予選は大荒れとなった。雨の影響もあり、前回のアテネで表彰台を占めた英国・米国・ナイジェリア、そして5位のポーランドの4チームが予選で消えた。ただ不運が重なっただけなのか。

 翻ってアテネで4位入賞を果たし、今度こそとメダルに照準をしぼっていた日本は事前に用意周到な準備をしていた。テーピング用の白いテープをスパイクに詰め、競技場に持ち込んだのである。実はこのテープには重要な役割があった。バトンパスの際、スタートのタイミングを掴むための目印としてそれをレーンに貼りつけるのだ。

「バトンを受ける走者は、前の走者がこのテープまで走ってきた瞬間を見計らってスタートを切るんです」
 アンカーの朝原宣治はこう語り、続けた。

「予選の日は小雨が降り続いており、トラックが濡れていました。競技場の外の招集場に行くと、用意していたテープを預けろと。オフィシャルのものを用意しているから、それを使えと言うんです。でも、実際には中で配られないこともある。しかもオフィシャルのテープはプラスチック製の銀色のもので、これだと濡れた地面では光って見づらい。しかも競技場の照明はまぶしかったからキラキラと光ってしまうんです。それで念には念を入れ、僕たちはスパイクの先に自前のテープを押し込んで競技場に持ち込んだんです」

 水の浮いたトラックとまぶしい照明。オフィシャルが用意したプラスチック製の銀色のテープは案の定、目印の役目を果たせなかった。それもあってバトンゾーンでのミスによる失格や途中棄権が計6チームも出るなか、自前のテープを持ち込んだ日本は見事なバトンリレーを披露し、決勝に進出。悲願の銅メダルを胸に飾ってみせたのである。

 最後にもう一度、パスツールの言葉を引く。「幸運は用意された心のみに宿る」。日本五輪選手団の幸運を祈る。

<この原稿は12年7月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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