「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」。世界で初めて障害者による競技大会を主催し、“障害者スポーツの父”と呼ばれるユダヤ系ドイツ人医師ルードヴィッヒ・グットマン卿の名言である。
 日本にも“障害者スポーツの父”はいる。英国に留学し、グットマン卿に師事した大分県出身の整形外科医・中村裕だ。東京五輪の約2週間後、1964年11月に第2回パラリンピックが開催された。言うまでもなくアジアで初めてのパラリンピックだった。日本選手団団長が中村だったことはあまり知られていない。

「保護より働く機会を」をモットーに別府市内に身体障害者の授産施設「太陽の家」を設立したのも中村だ。私は昨年3月に、ここを訪ねた。施設内の体育館では健常者と障害者が一体となってツインバスケットボールなどを楽しんでいた。垣根のない理想的な風景が、そこには広がっていた。

 中村が種を蒔いた大分国際車いすマラソンも今年10月で32回目を数える。「太陽の家」現理事長の中村太郎から興味深い話を聞いた。太郎は裕の長男で00年シドニー、04年アテネパラリンピックでは日本選手団のチームドクターを務めた。

「父は東京パラリンピックの頃は“障害者をさらし者にして、それでも医者か!”と言われたそうです」。当時は障害者がスポーツをすること自体、奇異に見られていた。そんな中でのパラリンピック開催だから、中村への風当たりの強さは想像に難くない。

 太郎は続けた。「第1回目の大分国際車いすマラソンでカナダとオーストラリアの選手がゴール前で互いにスピードを緩め、一緒にゴールした。彼らとしては友情の証だったのでしょう。しかし、父はそれを許しませんでした。“これはスポーツなのだから、勝敗を決めろ!”と。どちらの選手の前輪が先にゴールラインを越えていたかを写真判定までして、きっちり順位を決めたんです」

 57歳で世を去った中村が臨終の間際まで望み続けたのが「身体障害者という言葉がこの世からなくなること」だった。おそらく中村は将来におけるオリンピックとパラリンピックの統一を視野に入れていたのだろう。それこそが本当の意味でのバリアフリーなのだと。

<この原稿は12年8月29日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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