スポーツ大国へ 日本の土壌は整いつつある

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 どちらかといえば「知る人ぞ知る」魚だった“アカムツ”が、突如として争奪戦となったことがある。価格は高騰し、資源が枯渇する危険性まで言われるようになってきた。きっかけの一つとされるのは、テニスの全米オープンで日本人初の準優勝に輝いた錦織圭の「ノドグロが食べたい」発言だった。

 

 あのとき、それまでは“アカムツ”と表示して売っていた魚屋さんがこぞって“ノドグロ”に書き換えたように、これからは全国的なキャンピングカー・ブームが再燃するかもしれない。いまをときめくりくりゅうペアの木原龍一に「キャンピングカーで米国を横断したい」と言われてしまえば、もはや火はついたも同然。国民的英雄の一言は、時を社会に大きく動かす。

 

 今回の五輪で日本選手団は史上最多となるメダル数を獲得した。20年前のトリノ五輪で、全競技を通じてたった一つのメダルしか獲得できなかったことを考えると、まさに隔世の感がある。経済界でよく言われる「失われた20年」という言葉も、ことスポーツ界に関してはまったく当てはまらない。夏の競技に目を向けても、サッカー、野球、バスケ、ラグビー、卓球、テニス……実に多くの競技が史上最高とも言えるレベルに到達した。「失われた」どころか、「高度成長」の時代に入ったといってもいい。

 

 となると気になるのは、これが一過性のものなのか、それとも持続可能なものなのか、ということ。日本に限らず、どんな国、どんな競技にも栄枯盛衰はある。我が世の春に突入した感のある日本のスポーツ界が、再び暗黒時代を迎えることはあるのだろうか。

 

 ない、気がする。

 

 これまで、日本のスポーツ界は突発的なスターの誕生に頼りすぎていた。そして、スターの引退とともに、競争力と人気を失っていく競技が珍しくなかった。言ってみれば、スター至上主義。実力の裏付けとして外国人からの評価を異様なまでに欲しがったのも大きな特徴だった。

 

 だが、今回の五輪では、結果的にスターになったメダリストはいても、大会前から絶対的なスターとして期待されたメダリストはむしろ少数派だった。

 

 彼らは、彼女らは、「生まれた」というよりは「生み出された」勝者だった。天からのプレゼントではなく、日本という土壌が輩出したメダリストだった。

 

 真のスポーツ大国とは、スポーツをする環境に表れるとわたしは信じている。やりたいと思ったら、やれる。整った環境でやれる。五輪や各種世界大会での結果は、あくまでも環境という土壌の副産物にすぎない。

 

 現実問題、日本のアスリートの多くは、自らの技量を磨くために海外に生活の拠点を置かざるをえない。日本の才能を海外に育ててもらう――。ある種の托卵に似たシステムだとわたしは思っている。

 

 だが、今回の五輪では、強くなるために拠点を日本に置くアスリートが何人かいた。今年のサッカー高校選手権では、鹿島学園のタイ人GKが話題になった。以前は柔道でしかありえなかった「日本での武者修行」を選択する外国人が、生まれてきている。

 

 土壌が、整いつつある。

 

 日本選手が、国際大会で活躍するたびに聞こえてくる「日本の誇り」という声が、わたしは嫌いだった。彼ら、彼女らのために関与してこなかったにもかかわらず、果実にだけは群がろうとしているようで。

 

 その嫌悪感が、今回は少し薄れた。少しだけ、日本はスポーツ大国に近づいた。

 

<この原稿は26年2月26日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>

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