岩村明憲(福島レッドホープス会長兼GM/愛媛県宇和島市出身)特別編第2回「“世紀の誤審”に直面」

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 2006年3月3日に開幕した第1回WBC。日本は第1ラウンドA組に入った。舞台は東京ドームである。

 第1戦・中国戦、第2戦・台湾戦、第3戦・韓国戦の全てに岩村は6番サードでスタメン出場を果たした。チームの戦績は韓国に敗れ、2勝1敗だった。

 

 打撃成績は11打数3安打で、打率2割7分2厘、3打点。

 

 米ロサンゼルス・エンゼルスタジアムでの第2ラウンド1組。初戦の米国戦で、岩村が放った打球が発端となって事件は起きる。

 

 試合は1回から動いた。イチローの先頭打者ホームランで日本が先制。2回表には、川崎宗則のタイムリーで2点を追加したが、米国も粘る。2回裏にチッパー・ジョーンズがソロ、6回裏にはデレク・リーが2ランを放ち、3対3に。

 

 同点で迎えた8回表、1死満塁のチャンスで、この日2安打とバットの振れている岩村に打席が巡ってきた。

 

 マウンドは4番手の右腕ジョー・ネイサン。その4球目だった。乾いた音を発した打球はレフトへの浅いフライ。普通の外野手ならタッチアップを見送るケースだが、サードコーチャーの高代延博は自信をもって右腕を回した。

 

 その理由を投手コーチで、ベンチにいた鹿取義隆は、こう説明する。

「レフトのランディ・ウィンは、それまでライトを守っていて、8回からレフトに入っていた。試合前の練習から、肩が弱いことは分かっていた。それに調整も不十分のように見えた。だから試合前から、レフトに上がった打球は、多少浅くてもタッチアップすることを確認していたんです」

 

 しかもサードランナーは俊足の西岡剛である。迷わずスタートを切った。送球は大きくサードベース方向にそれ、日本に待望の勝ち越し点が入ったかのように見えた。

 

 ところが、である。あろうことか米国代表のバック・マルティネス監督から「離塁が早い」との抗議を受けたボブ・デービッドソン球審が、三塁塁審の下した「セーフ判定」を覆してしまったのである。

 

 

今江敏晃に「切り換えろ!」

 

「球審、塁審に関係なく、審判は同じ権限を持っている。一番近いところで見ている審判のジャッジを球審が変更するのはおかしい。長いこと野球をやっているが、こんなのは初めてだ」

 

 王が怒るのも当然である。巨人時代に王の下でプレーしていた鹿取も、「あんなに王さんが怒るのを見たのは初めて」と語っていた。

 

 この“世紀の誤審”により勢いをそがれた日本は、この試合を3対4で失う。

 

 日本はメキシコには勝ったものの、再び韓国に苦杯を舐めさせられた。

 

 韓国戦の2回、岩村は本塁突入の際に右足太ももを肉離れし、3回からサードを後輩の今江敏晃に譲った。

 

 列島に悲鳴が走ったのは、8回表だ。1死一塁の場面で韓国の1番・李炳圭の打球はセンター前へ。一塁走者が一気に三塁へ向かうのを見てセンター金城龍彦はツーバウンドの好返球をサードへ送った。

 

 タイミング的には完全にアウト。ところが今江はタッチを急いだのか、このボールをポロリとこぼし、それが原因で2点を奪われる。

 

 結局、このゲーム、日本は1対2で敗れ、断崖絶壁に立たされることになる。

 

 宿舎への帰りのバスの中、傷心の今江を慰めたのが岩村だった。

「バスに乗ると僕の隣がたまたま空いていた。だからアイツを呼んで“あれはオレでもエラーしていた。今日はサードが不幸になる運命なんだ。切り換えろ!”と言いました」

 

 第2ラウンドの1位は3戦全勝の韓国。日本、米国、メキシコの3チームが1勝2敗で並んだ。

 

 再び鹿取。

「韓国に1対2で負けた後、僕らはロサンゼルスからサンディエゴに移動していた。ホテルで米国対メキシコ戦を見ました。米国が勝てば、僕らは終わりです。ところがメキシコが2対1で勝った。失点率については知っていましたが、計算の仕方がよくわからない。それで関係者に聞きましたよ。“これ、どうなるの?”って。僕らが決勝に行けるとわかった瞬間、「ワーッ」という歓声が上がりました。本当に紙一重でした」

 

 日本には、まだ運が残っていたのである。

 

(第3回につづく)
>>第1回はこちら

 

<岩村明憲(いわむら・あきのり)プロフィール
1979年2月9日、愛媛県宇和島市出身。宇和島東高から97年ドラフト2位でヤクルトへ入団。00年にはサードのレギュラーとなり、ゴールデングラブ賞を初受賞。翌年、ヤクルトの日本一に貢献した。04年に自己最多の44本塁打をマークしたのを皮切りに、3年連続で打率3割、30本塁打以上を記録。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回の実績を残し、06年オフにポスティングシステムでメジャーリーグに挑戦、デビルレイズ(現レイズ)に移籍した。慣れないセカンドへのコンバートを経験しながら、08年には1番打者としてチームを牽引。チームを球団創設初のリーグ優勝に導いた。WBCでは06年、09年と日本代表のメンバーとして連覇を果たしている。10年はパイレーツへ移籍したが、シーズン途中に戦力外通告を受け、9月にアスレチックスへ。11年からは5年ぶりに日本球界に復帰し、楽天でプレー。13年からの2年間は古巣ヤクルトに在籍した。15年からは独立リーグのBCリーグの福島ホープス(現・福島レッドホープス)の選手兼任監督に就任。17年限りで現役引退。現在は会長兼GM。NPB通算成績は打率2割9分、193本塁打、625打点。メジャーでの通算成績は打率2割6分7厘、16本塁打、117打点。右投げ左打ち。

 

(文/二宮清純)

 

 

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