岩村明憲(福島レッドホープス会長兼GM/愛媛県宇和島市出身)特別編第1回「母に憧れ国際大会へ」
野球日本代表(侍ジャパン)が連覇を目指す第6回WBC第1ラウンド東京プールは、3月5日にスタートする。日本の初戦は6日、相手は台湾。舞台は東京ドームだ。
3大会ぶり3回目の優勝を果たした前大会、決勝の米国戦の視聴率は42.4%(関東地区=ビデオリサーチ調べ)に達した。
3対2と日本が1点のリードで迎えた9回裏、ローンデポ・パークのレフト側にあるブルペンから大谷翔平がマウンドに上がる。
大谷はマウンドに上がる前から「2アウト走者なしでマイク・トラウト。それが最高の状況」と考えていたという。
だが少々、力が入り過ぎた。先頭のジェフ・マクニールを四球で歩かせたところで理想のシナリオは潰えたかと思われたが、続くムーキー・ベッツを併殺に仕留めて、「最高の状況」が復活した。
言うまでもなくトラウトは過去3度のア・リーグMVPに輝く、MLB屈指の強打者。大谷にとってはロサンゼルス・エンゼルスの元同僚、誰よりも尊敬する選手だ。
火花の散る対決は、日本流にいえば宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の決闘」だった。
勝ったのは大谷。フルカウントから投じたスイーパーと呼ばれるスライダーは、大げさでなく43.2センチのホームベースを内から外に横切った。トラウトのバットが空を斬った瞬間、大谷はグラブと帽子をぶん投げた。かくして大谷は、一夜にして“伝説の人”となったのだ。
しかし、第1回WBCがスタートする前、この大会の成功を予想する声は、ほとんどなかった。
王貞治の信念
WBC初代監督として、侍ジャパンを率いた王貞治は、私のインタビューにこう語った。
「サッカーのW杯だって、いまは隆盛を極めていますが、最初は13カ国しか参加しなかったでしょう。将来的にはWBCもサッカーのW杯のようになればいい。
確かに野球はルールも難しいし、用具代などおカネもかかる。そういう理由もあっていまは世界的なスポーツとは言いがたい。だけど、こういう大会を通して長い時間をかけて野球の魅力を訴えていけば、いつかは理解されるようになると思うんです。
そうでなくても野球は2012年ロンドン五輪の実施競技から除外されたり、取り巻く環境は年々、難しくなってきている。最初から完璧な大会にするのは難しいと思うけど、幸いはWBCは4年おき(次回は09年を予定、以降は4年おきの開催を目標)で行われる。うまくいかない部分があれば次の大会までに改善しておけばいい。とにかく続けていくことが大切だと思います」
栄えある侍ジャパンの一員の中に宇和島市出身の岩村明憲(東京ヤクルトスワローズ)もいた。
前年(05年)のシーズンは144試合に出場し、打率3割1分9厘、30本塁打、102打点。サードで5度目のゴールデンクラブ賞に輝いていた。
岩村の母・美千代はこの年の8月に58歳の若さで世を去っていた。美容師の母は国際大会に出場するたびに好成績を収め、家にはトロフィーが飾られていた。
「オレもいつかは世界で!」
それは岩村が「世界」を意識する最初のきっかけだった。
(第2回につづく)
<岩村明憲(いわむら・あきのり)プロフィール>
1979年2月9日、愛媛県宇和島市出身。宇和島東高から97年ドラフト2位でヤクルトへ入団。00年にはサードのレギュラーとなり、ゴールデングラブ賞を初受賞。翌年、ヤクルトの日本一に貢献した。04年に自己最多の44本塁打をマークしたのを皮切りに、3年連続で打率3割、30本塁打以上を記録。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回の実績を残し、06年オフにポスティングシステムでメジャーリーグに挑戦、デビルレイズ(現レイズ)に移籍した。慣れないセカンドへのコンバートを経験しながら、08年には1番打者としてチームを牽引。チームを球団創設初のリーグ優勝に導いた。WBCでは06年、09年と日本代表のメンバーとして連覇を果たしている。10年はパイレーツへ移籍したが、シーズン途中に戦力外通告を受け、9月にアスレチックスへ。11年からは5年ぶりに日本球界に復帰し、楽天でプレー。13年からの2年間は古巣ヤクルトに在籍した。15年からは独立リーグのBCリーグの福島ホープス(現・福島レッドホープス)の選手兼任監督に就任。17年限りで現役引退。現在は会長兼GM。NPB通算成績は打率2割9分、193本塁打、625打点。メジャーでの通算成績は打率2割6分7厘、16本塁打、117打点。右投げ左打ち。
(文/二宮清純、写真/真崎貴夫)

