多くの教訓を与えてくれた「ドーハの悲劇」 ~清雲栄純氏インタビュー~

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 元サッカー日本代表選手であり、ハンス・オフト監督の下ではコーチとして「ドーハの悲劇」を経験した清雲栄純さん。日本サッカーの光と影を知る清雲さんと当HP編集長・二宮清純が、日本サッカーの歴史を振り返りながら、北中米ワールドカップでの森保ジャパンを占う。

 

二宮清純: 清雲さんは、1992年から93年までオフトさんの下でサッカー日本代表のコーチを務められました。当時のオフトさんの印象は?

清雲栄純 規律を重んじる監督、そして、従来の指導者とは全く違うタイプという印象を持ちました。

 

二宮: オフトさんのサッカーは、「スリーライン」「コンパクト」「アイコンタクト」など、キーワードをうまく使っていて、私たちにも非常に分かりやすかった。

清雲: そうですね。だからこそ、日本サッカーに彼の考えが浸透した。日本サッカーが近代化したのは、オフトの功績が非常に大きいと思います。

 

二宮: 代表チームのコーチとして、清雲さんが最も苦労された点は?

清雲: 最初は、朝が早いのがつらかった(苦笑)。合宿の時、オフトは毎朝5時に起きてラウンジでコーヒーを飲みながら、その日のトレーニングやミーティングの内容を私に話します。彼はメモ魔で、ノートには戦術的なことに加え各選手の課題、強み、体調などがびっしり書かれていた。そして7時頃に選手たちが起きてくると、最初に彼らと握手をするのです。

 

二宮: 1日をスタートするにあたり、コミュニケーションと同時に体調なども見ていたのでしょうね。

清雲: ええ。それで夜になるとやはりラウンジにいて、選手がどこに出かけるのか、誰と誰が一緒に出て行くのか、そうしたこともよく見ていました。一方で就寝は夜10時なのですが、カズ(三浦和良)が夜10時以降にストレッチなど体の手入れをしていると、「やめろ」と注意していた。体の手入れと休むことは違うんだと……。

 

二宮: 休む時には、しっかり休むべきだというわけですね。

清雲: おっしゃるとおりです。その辺は厳格でした。

 

二宮: そんなオフトさんが見いだしたのが、現日本代表の森保一監督です。当時の森保監督は無名で、彼が日本代表入りした時には私も驚きました。清雲さんの印象は?

清雲: 何事にも規律を持って臨んでいましたね。自分に課された役割を全うしているという感じでした。

 

二宮: カズ選手やラモス瑠偉さんなどそうそうたるメンバーを前に、臆する様子はなかったですか。

清雲: 自分のことをよく知っているオフトが監督だったということもあるかもしれませんが、全くなかった。チームメートにも自ら話しかけていました。

 

二宮: 私も森保監督のことは昔から取材していますが、代表選手時代はもちろん、代表監督になってからも少しも偉ぶるところがないし、かといって、へりくだるわけでもない。非常にフラットな人物です。清雲さんから見た、森保監督の強みとは?

清雲: いろいろなことを取り込もうとする吸収力がすごい。具体的に言えば「聞く力」ですね。とにかく人の話をよく聞く。

 

二宮: よく分かります。それに、普通は代表クラスになると「俺が、俺が」と鼻が高くなるものですが、彼にはそうしたクセがない。

清雲: 珍しいタイプの選手でした。でもプレイヤーとしては、誰かに指示されなくても相手の中心選手をつぶしにいくというような、泥くさい一面もありました。

 

二宮: さて、「ドーハの悲劇」についてお聞きします。ワールドカップ米国大会(1994年)への出場を決めるアジア地区最終予選で、日本は初の本大会出場に王手をかけていました。出場権のかかったイラク戦は2対1でリードしていながら、ロスタイムにコーナーキックから同点ゴールを決められ、まさかの引き分け。その結果、韓国に得失点差で及ばず予選敗退となりました。あの試合では後年、ハーフタイムでの「USA45ミニッツ」が話題に上がりました。

清雲: ハーフタイムのロッカールームで、オフトがボードに「USA 45ミニッツ」と書いた。前半を終えて1対0で勝っていて、「米国大会まであと45分」という意味ですが、それを受けて選手たちは興奮して、勝手にしゃべり始めたのです。ラインを上げるなど細かい修正をしようとしたのですが、誰も聞いていなかった。一方、イラクは日本に勝ったとしても、他会場の結果次第という予選突破が厳しい状況でした。日本が有利だと思っていたのですが、ロスタイムにあそこまでイラクが必死になるとは……正直言って驚きました。

 

二宮: 試合終盤の交代は武田修宏さんではなく、ほとんどの選手がへばっている中、中盤で豊富な運動量を誇る北澤豪さんあたりがよかったのではないかとの指摘もありました。

清雲: 難しいところです。守り切るために、運動量が多くボールをキープできる北澤を入れる選択肢がある一方、相手が前に出てくるのを抑えるために、攻撃力のある武田を前線に投入するというのも一理ある。いずれにしても決めたのはオフトだし、結果論です。先ほどのハーフタイムの出来事を含めて、「ドーハの悲劇」は、日本サッカーに多くの教訓を与えてくれました。

 

(詳しいインタビューは6月1日発売の『第三文明』2026年7月号をぜひご覧ください)

 

清雲栄純(きよくも・えいじゅん)プロフィール>

1950年9月11日、山梨県塩山市(現・甲州市)出身。高校からサッカーを始める。法政大学進学後は、4年時にキャプテンを務めた。卒業後は、JSL(日本サッカーリーグ)の古河電気工業に入団。1年目からポジションを確保すると、74年から76年まで3シーズン連続でベストイレブンに選ばれ、76年にはチームのJSL初優勝に貢献した。74年6月、日本代表デビュー(42キャップ)。84年に古河電工の監督に就任し、85年にリーグ優勝。また、86年のアジアクラブ選手権で日本チーム初優勝に導いた。92年から93年まで、ハンス・オフトのもとで日本代表コーチを務める。その後、94年から2シーズンにわたりジェフユナイテッド市原(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)で監督を務めた。

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株式会社第三文明社

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月刊誌「第三文明」で2010年1月号より好評連載中の「対論×勝利学」は、 二宮清純が一流アスリートや指導者などを迎え、勝利への戦略や戦術について迫るものです。 現場の第一線で活躍する人々をゲストに招くこともあります。 当コーナーでは最新号の発売に先立ち、インタビューの中の“とっておきの話”をご紹介いたします。

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