第1210回 二度と現れることはないプロ野球界の「黒船」
プロ野球で「黒船」と恐れられたボブ・ホーナーさんが、さる5月26日、68歳で亡くなった。
アトランタ・ブレーブスをFAとなり、ヤクルトと契約したのがシーズンが始まって間もない1987年の4月中旬。「15分だけ」という条件付きでインタビューの機会を得た私に、来日したばかりのホーナーさんは逆にこう問いかけた。「ところでヤクルトというまちは、東京のどこにあるんだ?」。日本のプロ野球球団の多くが、企業名を冠していることを知らなかったようだ。
もちろん親会社のヤクルトが、どういう企業かについても、彼は理解していなかった。それが、しばらくすると乳酸菌飲料のCMにちゃっかり出ていた。決めゼリフは確か「おなかに菌力」だった。
それはともかく、ホーナーさんのヤクルト入りは、いろんな意味で衝撃的だった。まずは彼がFA権を行使して、日本にやってきた初のメジャーリーガーだったということ。来日前の86年のシーズン、ホーナーさんは141試合に出場し27本塁打、87打点とそれなりの成績を残した。ピークは過ぎていたものの、まだまだMLBで主軸を張るだけの余力を残していた。
ところが、ホーナーさんの獲得に名乗りを上げる球団は皆無だった。ダラスに豪邸を所有していた本人は、テキサス・レンジャーズでのプレーを希望していたが、待てど暮らせどオファーはなし。ブレーブスは減俸に応じるなら新たに契約書を用意する、とホーナーさんに「屈辱的な条件」を突き付けてきた。
なぜ、ここまでこじれてしまったのか。MLBはFA制がスタートした76年以降、選手の年俸が高騰し、オーナーたちは悲鳴を上げていた。そこでFA選手の争奪戦、すなわちマネーゲームを意図的に避けようとして、水面下で「コルージョン」(談合)が始まる。とりわけ、その動きが顕著だったのが85年から87年にかけてで、ホーナーさんは、もろにその網に引っかかってしまったのだ。
だが捨てる神あれば拾う神あり――。ウチでよければ、と言って手をあげたのがヤクルトだった。球団が提示した条件は1年3億円(推定)。当時の日本人選手の最高給取りは、ロッテから中日に移籍したばかりの落合博満の1億3000万円(推定)。
破談にはなったものの、来日前にホーナーさんがブレーブスに要求した条件は3年450万ドル(当時のレートで約6億5000万円)。1年だと2億円ちょっと。ホーナーさんが自著で<十分満足できるものだった>と、ヤクルトからの提示額について述べているのもうなずける。
ヤクルトでの成績は93試合に出場して打率3割2分7厘、31本塁打、73打点。日本デビュー2戦目、“驚弾”と呼ばれた神宮での3本塁打は今も語り草だ。
あれから39年。野球を取りまく日米の経済格差は果てしなく広がってしまった。プロ野球の世界に、今後「黒船」が姿を現すことは、もう2度とないだろう。
<この原稿は26年6月3日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>
