「ボールが消えた……」。三振を喫した直後、神宮球場の通路で大毎の主砲・山内一弘は、うつろな表情を浮かべて、つぶやいたという。当時、パ・リーグ事務局にいたパンチョこと伊東一雄から後年、聞いた話。
 1961年の夏、浪商高を全国制覇に導き、17歳で同校を中退して東映に入団した尾崎行雄は巨人とのオープン戦で長嶋茂雄を切り切り舞いさせるなどして脚光を浴びていた。
「いくらすごい言うても本当なら、高校3年生やろ」。降って湧いた怪童フィーバーに横やりを入れたのが山内である。「ワシらプロで何年もメシ食っているもんが、打てんわけあるか」

 開幕戦で尾崎vs.山内は早くも実現した。延長10回、リリーフで登場した尾崎は、先頭打者の葛城隆雄をピッチャーゴロに仕留め、続く榎本喜八、山内を連続三振に切って取った。「山内さんはバットにかすりもせんかったよ」。デビュー戦の思い出について聞くと、尾崎は誇らしげな笑みを浮かべて言った。もう10年くらい前のことだ。

 残念ながら、私は尾崎の全盛期を知らない。プロ野球を見始めた頃には尾崎は肩を痛め、剛腕の面影はどこにもなかった。それでも彼がマウンドに立つと、普段はパ・リーグの試合にあまり興味を示さなかった父が「おお尾崎や。日本で一番速かったピッチャーや」と言って、食い入るようにテレビを見つめたものだ。

 確かNHKだったと記憶しているが、その時、たまたま尾崎の全盛期の雄姿が画面に躍った。目が点になるとは、このことだ。もう速いのなんの。ミットが乾いた音を発した瞬間に、慌ててバットを振るような打者もいた。「オレはキャッチャーの右足のツマ先を見て投げとった。すると、ちょうどええところに決まるんよ」。引力に抗うかのようなボールだったのだ。

 そんな尾崎にも苦手がいた。近鉄時代の関根潤三だ。「小さくバットを振る。あれが嫌やった」。関根の回想。「普通のピッチャーが機関銃の弾なら、尾崎のそれは大砲の弾。手元でブァーッと大きくなる。詰まると負けだから、尾崎の時だけは振り遅れないようにと、こっそり軽いバットに替えていたんです」

 さらば、昭和の剛球王。記録よりも記憶、記憶よりも衝撃。告別式は本日午前10時より、東京・町屋斎場で執り行なわれる。

<この原稿は13年6月19日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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