小学校に入る前、木下拓哉がいつも目にする光景があった。4つ年上で地元の少年団で野球をしていた兄と父親がキャッチボールしている姿だ。「僕もやりたいなぁ」。木下はそんな思いを募らせていた。すると、入学した小学校には野球が好きな同級生が多かった。みんなすぐに野球仲間となり、1年の頃は「公園などで遊ぶ時はいつも野球だった」という。そして、木下は2年から少年団に入り、本格的に競技として野球を始めた。ポジションは現在務めているキャッチャーではなく、ピッチャー。彼は「野球をやるなら“ピッチャーで4番”というイメージを持っていました」とピッチャーを志望した理由を懐かしそうに振り返った。
 エースになれなかった中学時代

 小学校時代は出場したほとんどの大会で表彰台に上がり、「負けた記憶はあまりない」という。その頃から木下は、甲子園を本気で目指していた。そのために、どういう進路をとればいいのか。小学校の卒業を控え、木下はどの中学校に進学するかを決める必要があった。その中で木下には「文武両道を果たして甲子園に行きたい」という考えがあった。そして、親との相談の末、中高一貫教育の私立進学校への受験を決意。大好きな野球をする合間を縫って、試験勉強に励んだ。

 しかし、木下は志望した学校には合格することができなかった。親からは「公立の中学に行って、高校に上がる時にもう一度、受験すればいい」と言われた。ただ、木下にその考えはなかった。
「1度、落とされたところには行きたくない。こうなったらとことん野球に打ち込める環境に行きたい」
 そんな木下が選んだのは高知中学高等学校だった。高校の野球部は甲子園で春夏ともに全国制覇している名門だ。木下は高知中の二次試験を受け、合格。04年4月に入学を果たした。

 中学でも木下はピッチャーとしてプレーし、3年生が引退した1年の秋から登板機会を得始めた。ただ、木下の学年にはもうひとりピッチャーがおり、木下はエースではなかった。
「木下の球はすごく速くて変化球もキレていました。ただ、コントロールが悪かったんです」
 こう語るのは高知中野球部監督の浜口佳久だ。浜口は04年12月に中等部の監督に就任。それまでは高等部の野球部でコーチを務めていた。ある時、浜口は打撃練習をしていた木下を見て「ピッチャーよりもバッターとして育てる方がいいんじゃないか」と感じた。

「パワーは中学生では飛び抜けたものがありました。練習や試合などでの飛距離が、他の選手とは全然違った。軟式はフライを打ち上げてもそこまで高くは上がらないものなんですが、木下は打ち損じでも打球に伸びがありました。また引っ張るだけではなくて、逆方向にもしっかり打てるうまさもありましたね」

 木下は3年になると、野手として出場する試合が増えた。浜口の「木下の打撃力を生かしたい」という判断からだった。それまで、浜口はコントロールを安定させるため、木下には投げ込みと走り込みを中心とするメニューを課していた。しかし、野手として起用することを決意してからは、徹底的に打撃練習に取り組ませた。そこで意識させたのが「ただ当てにいくようなバッティングではなく、しっかりと振り切る」ということだった。

 パワーのある木下はバットに当てられればボールは飛ぶ。だが、高校に上がればこれまで以上に球威のあるピッチャーとの対戦も増えてくる。それらの選手のボールにも差し込まれないようにするためだった。高校の野球部で指導してきた浜口だからこその先を見据えたトレーニングと言えるだろう。木下は「この頃からピッチャーで上を目指すのは無理かな」と思い始めていたという。それだけに、「高校でも主軸になれる。バッターとして頑張れ」という浜口の言葉を励みに、彼は黙々とバットを振り続けた。その成果は後に高校通算21本塁打という結果になって示されることになる。

 輝き始めた打の才能

 野手としての練習を積んで高校に進学した木下だが、当初は再びピッチャーを志望していた。中学最後の大会が終わり、木下は硬式球に慣れるための練習を行っていた。その際、硬式球でピッチング練習をしてみると、軟式球よりも好感触でボールを投げられると感じたのだ。「これや!」。木下の心に、ピッチャーとして勝負したいという野心が再燃した。

 だが、現実は甘くなかった。強豪の高知高には県内から有力な選手が集まってくる。木下の同期には2012年のドラフトで巨人から4位指名される左腕・公文克彦がいた。上級生のピッチャーも甲子園を経験しており、実力者揃いの中で木下はベンチに入ることさえままならなかった。

 しかし、ある指導者との“再会”が木下の野球人生を変えた。高知高野球部監督の島田達二である。実は、島田は04年11月まで高知中の監督を務めており、その間、当時中学1年だった木下を指導していた。
「順調に体が大きくなっていて、プレーでは特にバッティングが光っていました」
 島田は約2年半ぶりに見た教え子の成長をこう振り返った。島田も高知中監督の浜口同様に木下のボールを飛ばす能力に目が留まった。

「1年の時点で、長打力はチームの中でもトップクラスでしたね。バットコントロールも非常にうまかった。ですから、ピッチャーとしてはすぐに使えないけれど、野手としてなら攻撃面で戦力になる、と考えました」

 島田は秋季大会が始まる前、木下にライトへのコンバートを持ちかけた。

 木下はすぐにライトとしての練習を始めた。その頃、木下は夏の大会後の新人戦にもベンチ入りできていなかった。しかし、同期の公文はベンチ入りを果たし、試合にも出場していた。木下は悔しさと同時に、「このまま、ろくに試合にも出られずに高校野球が終わってしまうんじゃないか」という焦りも感じていた。そんな時に打診されたのがライトへのコンバートだったのだ。

「バッティング練習を見ていた島田先生から“ライトに入ってみろ”と言われたんです。ピッチャーでは思ったようなプレーができていなかったですし、“試合に出られるなら何としてもやりたい”と思いました。島田先生がそう言ってくれる以上はチャンスがあるんだと信じて、うれしさを感じながらライトの練習をしましたね」

 中学時代に指導した浜口が「肩も強いし、どこでも守れる器用さがあった」と語るとおり、木下は短期間でライトのポジションに順応した。すると秋季高校野球県大会からベンチ入りを果たした。準決勝の高知商業戦では先制タイムリーを放つなど、期待される打撃ですぐさま結果を出した。チームも準優勝し、選抜高等学校野球大会出場(センバツ)のかかる四国大会に出場した。

 結局、四国大会準々決勝で今治西高校(愛媛)に敗れ、センバツ出場はならなかった。ただ木下にとってはライトのレギュラーを確保するなど、野手としてプレーを続ける自信を得た大会となった。ところが、である。今後も持ち前の打撃力を生かそうと考えていた木下に、思わぬ転機が訪れた。秋季大会後、彼は島田からキャッチャーの練習をするように伝えられたのだ。

(つづく)

木下拓哉(きのした・たくや)プロフィール>
1991年12月18日、高知県生まれ。4つ年上の兄の影響で野球を始め、小学2年で地元の野球少年団に入団。当時はピッチャーとしてプレーした。中高一貫教育の高知中学高等学校に進学。高校時代にピッチャーからライトへコンバートされ、高2の春からキャッチャーを務める。08年、09年と2年連続で夏の甲子園を経験。10年、法政大学に進学した。法大では11年春季リーグから代打で出場機会を得る。12年の秋季リーグはレギュラーとして法大7季ぶりの優勝に貢献し、ベストナインに選出された。強肩と巧みなインサイドワークが武器。一発を狙えるパンチ力も備える。身長183センチ、体重93キロ。右投右打。



(鈴木友多)
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