「私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです。スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました」
 さる9月7日、アルゼンチン・ブエノスアイレスで行なわれた2020年夏季オリンピック・パラリンピックの開催都市を決めるIOC総会。最終プレゼンテーションに登場したパラリンピック陸上選手の佐藤真海は、こう切り出した。
「19歳の時に私の人生は一変しました。私は陸上選手で、水泳もしていました。また、チアリーダーでもありました。そして、初めて足首に痛みを感じてから、たった数週間のうちに、骨肉腫により足を失ってしまいました」

 右足の下腿部を失う原因となった骨肉腫については、以前、本人からこう聞いた。

「大学2年の時、足首に痛みが出て腫れてきた。レントゲンを撮ってもらおうと病院に行ったら、先生が“骨が溶けている”と。既に腫瘍が足を侵食して溶け出している状態だったんです」

 手術については最後まで迷ったが、医師の固い決意が背中を押した。「もしかしたら10年後には、ヒザや股関節のように、足首の人工関節ができているかもしれない。でも、それを待っている余裕はない」。そのひと言で迷いが吹っ切れた。

 右足を失ってから、もう一度、陸上に戻ることを決意した。「心から湧き出るエネルギーがないと、そのままではどんどん落ちていきそうだった。その状態から自分を立て直すには、スポーツの力が必要でした」。陸上は、いわば“心の駆け込み寺”だったのだ。

 初めて出場したパラリンピックが04年のアテネ大会。走り幅跳びを始めて1年後だった。そこで見た競技に真剣に打ちこむパラリンピアンの姿は「まだ義足になったことを引きずっていた」彼女を大いに勇気づけた。

「この人たちのように、私も義足のことをちゃんと受け止めて、限界をつくらずに前へ前へと進む人生にしたい。そう思うきっかけになりました」

 昨年のロンドン大会まで、パラリンピックには3大会連続で出場している。日本身体障害者陸上競技連盟強化委員会部長の花岡伸和は「人間的な成長に伴って、選手としての厚みや幅が出てきた。以前はぶっつけ本番で、ただ跳んでいるだけという面も見られたが、今は大会に合わせてきちんと調整し、結果も出している。まだ伸びる選手だと思います」と語っていた。

 プレゼンテーションでは東日本大震災についても、自分なりの思いを口にした。佐藤は宮城県気仙沼市の出身。「津波が私の故郷の町を襲いました。6日もの間、私は自分の家族がまだ無事でいるかどうかわかりませんでした。そして家族を見つけ出した時、自分の個人的な幸せなど、国民の深い悲しみとは比べものにもなりませんでした」と述べた時には、会場からすすり泣きが聞こえたという。

 スポーツの力とは何か――。競技者としてはもちろん、語り部としても今後の佐藤には大きな期待が寄せられている。

<この原稿は『サンデー毎日』2013年10月6日号に掲載されたものです>

◎バックナンバーはこちらから