今では元プロレスラーと紹介するより、女子レスリングのアテネ、北京五輪銅メダリスト・浜口京子の父親と紹介した方が通りがよいだろう。
 2020年夏季オリンピック・パラリンピック開催都市が東京に決まった際も、その翌日、レスリングが20年大会の実施競技に選ばれた際もアニマル浜口(本名平吾)はテレビに引っ張りだこだった。

「さぁ日本、燃えに燃えるぞ!」

ドスのきいた声で一気にたたみかける。あの話術はプロレスラー時代に培ったものである。そして、最後はこう締めるのだ。

「気合いだ!  オイッ! オイッ! オイッ!」

旧知のテレビ局のディレクターが、こう言って舌を巻いていた。

「アニマルさんのサービス精神には、いつも驚かされます。一見すると暴走しているように映るんですが、ちゃんと残り時間を計算してしめてくれるんですよね。
それに、こちらがどんなコメントを欲しがっているかも瞬間的に察知してくれる。あれだけテレビ向きの人はいません。プロレス時代のマイクパフォーマンスが生きているんでしょうね」

アニマル浜口といっても、もはや現役時代を知る人は少ない。17歳でボディビルを始め、22歳で国際プロレスに入団した。

この団体は発足時こそカール・ゴッチやビル・ロビンソンといったヨーロッパ出身のテクニシャンが活躍したが、その後はラッシャー木村の“金網デスマッチ”に代表されるように流血戦が売り物になった。格闘技経験のない浜口にとってレスリングの基礎をマスターした上でラフファイターに転じるには、いい環境だったと言えるかもしれない。

アニマル浜口の名前が一躍、全国区となったのは1981年9月23日の新日本プロレスの田園コロシアム大会。経営不振に陥った国際プロレスは、その年の夏に活動を停止していた。

当時の「国際軍団」のエースはラッシャー木村。悪役として敵地に乗り込んだ以上、啖呵のひとつや二つ切らなくては会場は盛り上がらない。
ところが、大観衆の前で「こんばんは」とやってしまったのだ。拍子抜けした新日ファンの間からは笑いも起きた。

この窮地を救ったのが浜口だった。木村からマイクを取り上げた彼は鬼のような形相でエースのアントニオ猪木を指さし、こう叫んだのだ。

「勝つのはオレたちだ!」

これでなくてはプロレスは盛り上がらない。

彼の頭の回転の速さは、66歳の今でも現役時代と少しも変わらない。
「7年後の東京五輪を目指しますか?」
とのアナウンサーの質問に、娘からマイクをひったくった浜口、よく聞いてくれたとでもいわんばかりの口ぶりで、こう答えた。
「リオに出た後、東京のオリンピックに出るんだよ! 京子の京は東京の京からとったんだ」

傍らで娘がクスクス笑っていた。

<この原稿は『サンデー毎日』2013年10月20日号に掲載されたものです>

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