左ストレートは向き合った相手の右耳の横を通過しているように見えた。しかし、あろうことかメキシコ人は腰からキャンバスに崩れ落ちた。3日前のWBCバンタム級世界戦。王者・山中慎介が8ラウンドにチャレンジャーのアルベルト・ゲバラから奪った最初のダウンは、ある意味、9ラウンドのフィニッシュシーンよりも衝撃的だった。
 打った本人が「なんであれで倒れたんかな」と首をひねったくらいだから「神の左」ならぬ「幻の左」である。「グローブの感触はなかったのですが、相手が倒れる瞬間、音が聞こえた。これが不思議なんです」。強打の幻影に脅えたチャレンジャーは、必殺のショットが発射された瞬間、字義どおり「腰を抜かした」のではあるまいか。

 悪いチャレンジャーではなかった。軽快なフットワークでチャンピオンを翻弄し、的をしぼらせなかった。しかしダンスを踊っているだけでは、いずれ捕まる。ささやかな抵抗も3ラウンドまでだった。4ラウンド以降は山中のワンサイドゲーム。「一発はない」と見切った山中はジャブで強引に距離を詰め、ボディを狙い打った。足を止められたチャレンジャーは「幻の左」で戦意を喪失し、最後は「神の左」をくってテンカウントを聞いた。

 傷ひとつない表情で山中は試合を振り返った。「ゲバラはうまい選手ではあったけど、強さは感じなかった。(僕に)随分、削られていたので、最後は何が当たっても倒れるような感じでしたね」。今後の課題は? と聞けば「右の精度」だという。「右利きの選手が相手だと、お互い前の手(山中は右)が重なり合う。今後は相手の左を上回る戦いをしなければ……」

 不意に思い出したのが1990年サッカーW杯イタリア大会でのアルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナの乾坤一擲のスルーパスだ。ブラジルとの決勝トーナメント1回戦、形勢不利の状況を打開したのはマラドーナの右足だった。左足首に故障を抱えていたマラドーナは相手4人を引き連れ、俊足のクラウディオ・カニーヒアをフリーにした。勝負を決めたラストパスは得意の左足ではなく、ノーマークの右足によって通された。

 ボクシングも同じである。右の精度が上がれば「神の左」は、さらに輝きを増すだろう。世界戦4連続KO勝ちをおさめながら、未だ発展途上。山中が見据える頂は、恐ろしく高い。

<この原稿は13年11月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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