冬季五輪と言えば、真っ先に思い出すのが1998年の長野大会、ノルディックスキー・ジャンプ団体戦での日の丸飛行隊の金メダルだ。
 長い間、スポーツの現場にいるが、あれだけ痛快な大逆転劇は、なかなかお目にかかれるものではない。

 ドラマの主役は原田雅彦だった。第1ラウンド、わずか79・5メートル。この失速ジャンプで日本は首位から4位に滑り落ちた。

 原田は”白馬の女神”に嫌われた。スタートの直前、猛吹雪に見舞われ、視界はゼロも同然。しかも助走路には新雪が積もり、助走スピードは著しく失われた。

 中断にならない限り、どんな状況でも、ルール上ジャンパーは15秒以内でスタートしなければならない。原田は力なくつぶやいた。

「屋根ついてないから、しょうがないよね」

 第2ラウンドは横殴りの雪の中で始まった。暗雲を振り払ったのは“トップバッター”の岡部孝信だった。
 岡部は“第4の男”と呼ばれていた。代表に最後に滑り込んだ経緯があったからだ。

 しかし、持ち前のロケットのようなジャンプでバッケンレコードの137メートル。起死回生の“大ホームラン”で日本は3チームを抜き去り、トップに立った。

 続く斉藤浩哉もK点越えの124メートルを飛び、首位をキープ。そして金メダルへのバトンは原田へ。

「できるだけ遠くへ、できるだけ……」
 空中にフワリと浮いた原田はK点を越えても、さらに飛び続けた。バッケンレコードタイの137メートル。私の目には「着地」というよりも、「着陸」に映った。

 過日、会った際、原田はメダルへの大ジャンプをこう振り返った。

「“絶対に金メダルを獲る”という極限の精神状態でなければ、あれだけの距離を出すのは無理でした。足が折れてもいいという覚悟で飛びましたから……」

 ドラマをつくったのが原田なら、歴史をつくったのはアンカーの船木和喜だった。

 106メートルを飛べば金メダル確実とはいえ、何が起こるか分からないのがジャンプである。船木にかかる重圧は想像を絶するものがある。

 それに船木は打ち克った。いつもながらの低い姿勢、風を切り裂く125メートルの高速ジャンプ。まさに史上最強の“4番バッター”だった。

 白馬に舞った歓喜の大漁旗は、今も私のまぶたに焼きついたままだ。

<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2014年2月7日号に掲載されたものです>

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