プロ野球がセとパに分立したのは1950年である。この年、驚くべき記録が誕生する。松竹の小鶴誠がプロ野球史上初めてホームランを50本台に乗せたのだ。小鶴は51本塁打、161打点で2冠王となった。ちなみに打点はシーズン最多記録で60年以上経った今も破られていない。
 小鶴が50本台以上のホームランを放ったのは、この年だけである。2番目の記録となると24本(49年、51年)と激減する。打点も100打点以上はこの年だけ。2番目は92打点(49年)だ。

 なぜ、この年だけ小鶴は大爆発したのか。後に松竹の監督を務める新田恭一から学んだ「ゴルフ式スイング」が理由としてあげられるが、それだけではない。前年から球界は飛距離の出る「ラビットボール」を採用していた。

 果たしてラビットボールとは、どんなボールだったのか。当時を知る杉下茂の説明。

「それまではスフ(レーヨン)で巻いたボールを使っていた。それが純綿で巻いたボールに変わった。こちらの方が高級でバッターに真芯でとらえられても変形しなかった。つまり復元力があった。ということは、それだけボールも飛んだということでしょう。ただ硬くて縫い目が締まっているため僕には投げやすかった」

 杉下によれば、このラビットボール、球場によって使い分けていたという。「狭い後楽園球場では使った記憶がない。よく使っていたのは広い甲子園ですよ」。では、なぜ球界は「飛ぶボール」を採用したのか。「やっぱり野球は点が入らなければおもしろくない、という判断が経営陣に働いたんじゃないかな。なにしろ赤バット(川上哲治)、青バット(大下弘)全盛時代ですから」

 先週から「飛び過ぎるボール」に揺れるプロ野球。基準値を上回っていた以上、違反は明白だが、一方でどの基準のボールならプロ野球は、より楽しめるのかという視点も欲しい。

「飛ばないボール」時代の12年の公式戦の総得点は5627。1試合あたりは6・51点。「飛ぶボール」にこっそり変更されていた13年の総得点は6895。1試合あたり7・98点。4対3のスコアなら計7点。私見だが12年と13年の中間あたりの基準値が望ましいのではないか。熊崎勝彦コミッショナーの見解もお聞きしたい。

<この原稿は14年4月16日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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