インテリと呼ばれた外国人選手はたくさんいるが、引退後、医師になったのは私が知る限りでは、広島、南海で活躍したゲイル・ホプキンスただひとりである。
 広島の初優勝は1975年。球団創設26年目での悲願達成にホプキンスは大きな役割を果たした。主に3番打者として全130試合に出場。打率こそ2割5分6厘ながら33本塁打、91打点の好成績で打線を牽引した。
 高々とライトスタンドに舞い上がる打球は市民球場の華で、RCCラジオの解説者だった金山次郎は「ピンポン球」という表現をよく用いた。実際、そう見えなくもなかった。
 このホプキンス、昨年5月に広島市で開催された日本整形外科学会学術総会に出席して講師を務め、その足でマツダスタジアムの打席に立った。大きな拍手に迎えられての始球式だった。

 広島大学整形外科の越智光夫教授によれば、ホプキンスはプレーの傍ら、同大医学部の研究室で組織学を学び、帰国後はシカゴのラッシュ医科大を卒業して医師免許を取得したという。

 試合前、ロッカールームでは医学書を読みふける姿が、たびたび目撃されている。「最初は何しに来ているのかなと思いましたよ。練習が終わったら難しい本ばかり読んでいるんだから…」。初優勝時の監督・古葉竹識はこう振り返り、続けた。「彼はメジャーリーグでの経験もあったけど、少しも偉ぶったところがなかった。自分から選手たちに話しかけ、時にはアドバイスもしていた。非常にコミュニケーション能力が高く、またリーダーシップのとれる選手でした」

 23年ぶりのリーグ優勝を目指す広島。右と左の違いはあれ、27日の巨人戦でサヨナラ3ランを放ったブラッド・エルドレッドの姿が39年前のホプキンスに重なる。

 思い起こせば、75年10月15日、後楽園球場での巨人戦。広島の優勝を決定づけたのは、9回表に飛び出したホプキンスの3ランだった。普段は物静かな男が小躍りしながらダイヤモンドを一周した。指揮官は万歳しながら、三塁コーチャーズボックスでヒーローを迎えた。このシーンは今も語り草だ。

 初優勝の立役者も、もう71歳。現在は教育者として大学で後進の指導にあたっているという。

<この原稿は14年4月30日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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