アテネ18個、北京12個、ロンドン4個――。何の数かご存知か? 実はこれ、夏季パラリンピックにおける陸上競技のメダル数である。
 右肩下がりどころではない。急降下である。「ここまで落ちてしまったら、もう付け焼刃の対策では通用しないでしょう」。神妙な面持ちで花岡伸和・日本身体障害者陸上競技連盟副理事長は語った。
 それにしても、なぜ、ここまで落ち込んでしまったのか。花岡によれば、日本が弱くなったというより、他国が強くなったと言った方が正解らしい。

 参加国・地域も増加の一途をたどっている。1964年東京大会が21だったのに対し、80年アーネム大会は倍の42、96年アトランタ大会では104と初めて大台に乗った。それからも増え続け、04年アテネ大会は135、08年北京大会は146、そして12年ロンドン大会は164である。

 メダル争いが激化する中、日本が復活するための条件とは何か。「海外にヒントがある」。こう前置きして花岡は続ける。「たとえばスイスの脊椎損傷専門病院には宿泊施設や400メートルトラックまである。つまり事故に遭った人を運んだ後、オペや治療、リハビリにとどまらず、その先の生活やスポーツというところまで、病院が一貫して見ることのできるシステムができ上がっているんです」

 日本でもオペ、リハビリ、そして社会復帰までの道筋は整えられている。しかし、その先のスポーツとなると、どうか。障害者スポーツを始めようとしても、どこに施設があるのか。どんな指導者がいるのか情報が十分ではないという声を、よく耳にする。

 この4月に健常者スポーツと障害者スポーツの強化が一本化されるまで、健常者スポーツは文科省、障害者スポーツは厚労省が所管していた。その弊害がないとは言えまい。

 障害者スポーツの行く末を見据えて花岡は語る。

「たとえば僕らが現役をリタイアした後、ソーシャルワーカーとしてもっと積極的に障害者に関われる仕組みをつくるのはどうか。スイスの病院では車イスマラソンの世界記録保持者が、障害者に対し、スポーツはもちろん、生活全般に関するアドバイスを送っていました」。これはパラリンピアンのセカンド・キャリアのみならず、未来のパラリンピアンづくりにも有効な方策だろう。

<この原稿は14年7月16日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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