「あの夜の甲子園は星がよく見えました。お月様も出ていました。もう、あの場面は祈るしかないですからね。きっと女房が味方してくれたんでしょう」。昨日、胆管がんのため67歳で死去した愛媛・済美高監督の上甲正典が、やわらかな笑みを浮かべて語ったのは今から10年前のことだ。
 センバツ史上初となるナイトゲームでの決勝戦。9回裏2死二塁。初出場の済美は、愛知・愛工大名電を6対5と1点リードしていたが、タイムリーが出ればゲームは振り出しに戻る。三塁側ベンチ前で上甲は甲子園の星空に願いをかけた。「おい、節子、勝たせてくれよ」

 済美の2年生エース福井優也(現広島)が投じた117球目、快音を発した打球はサードへ。三塁手の矢のような送球が一塁手のミットに突き刺さった瞬間にはじけた上甲の笑顔は今も忘れられない。

 母校・宇和島東を率いて初出場を果たした88年のセンバツで、いきなり頂点に上り詰めた。「あの人から野球を取ったら何も残らない」。それが節子夫人の口ぐせだった。家業の薬局は夫人に任せ、高校野球に全てを賭けた。

 陰で上甲を支えた夫人が他界したのは01年6月。「もう、野球は終わりだ」。失意に沈む上甲に友人が声をかける。「奥さんが言ってたぞ。ユニホームを着ているオマエが一番好きだと」

 請われて宇和島から松山へ。長い歴史を誇る高校野球で、初出場初優勝を2度も達成した監督は上甲しかいない。2校での全国制覇も戦後では上甲以外に原貢(三池工、東海大相模)と木内幸男(取手二、常総学院)の2人だけだ。

 練習では怖い顔をしているのに、甲子園ではいつもニコニコしていた。NHK解説者の池西増夫に「上甲君、スポーツは楽しくやるもんじゃないか。監督がしかめっ面をしていたらダメだ」とたしなめられたのがきっかけだった。「でもね、笑顔って難しいんですよ。口の開け方をどうしようとか。鏡を見て練習もしましたよ」。苦笑いしながら上甲は語ったものだ。

 自らの余命がいくばくもないことは早くから知っていた。病状を選手に隠して炎天下の県予選を戦った。8月中旬に入院。「苦しむのは嫌やから、もう寝かしてください」。見舞いに訪れた親しい医師にそう告げた。寝顔には“上甲スマイル”がうっすらと浮かんでいたという。合掌。

<この原稿は14年9月3日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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