野球を始めたきっかけが兄へのライバル心なら、厳しい父親の指導のもと、野球を続けた理由のひとつもまた兄の存在だったという長曽我部竜也。彼が兄と同じ新田高校を進学先に選んだのも必然だったのだろう。そしてもうひとり、長曽我部に大きな影響を与えた人物がいる。現在、同校野球部監督で、当時はコーチを務めていた岡田茂雄だ。
「絶対に新田に来いよ」
 兄の練習を見に、高校のグラウンドを訪れると、必ずと言っていいほど岡田にそう声をかけられたという。長曽我部もまた、情熱的に指導する岡田の姿に魅了され、「岡田先生と一緒にやりたい」という気持ちが強くなっていった。そして2008年、長曽我部は新田高校野球部の一員となった。
 1年夏につかんだレギュラーの座

「お兄ちゃんはプレーで目立つタイプではなかったけれど、コツコツと努力する選手でした。“マジメ”という言葉が本当に似合う感じでしたね。一転、弟の竜也はもう“やんちゃ小僧”という感じでしたね(笑)。竜也はボーイズリーグ時代はピッチャーと内野手を兼任していて、コントロールも良かったし、センスがあるなとは感じていました」

 4つ上の兄と入れ替わるようにして入学した長曽我部は、一度も甲子園に行くことができなかった兄の分もと、気合い十分で野球部の門を叩いた。だが、はじめは想像以上の高校生のパワーに圧倒されっぱなしだったという。彼の脳裏に今でも焼き付いている光景がある。
「4番を打っていた3年生の先輩のバッティング練習を見ていたら、ホームラン性のすごい打球をバンバン飛ばすんです。そんなすごい打球を間近で見たのは初めてで、驚きました。『うわぁ、高校って、こんなにすごいレベルなんだ……』と思いましたね」

 一方、岡田はこんな印象をもっていた。
「あの厳しいお父さんのもとでやってきただけあって、最初から基礎がしっかりしていました。特に守備力に関してはずば抜けていましたよ。普通、入ったばかりの頃は高校のスピードや動きにとまどったりするのですが、彼はすぐに対応できていました。また、精神的にも強かった。たとえ先輩相手でも、グラウンド内では対等である、というようないい意味での“ふてぶてしさ”がありましたね」

 そんな長曽我部が主戦となるにはそう時間はかからなかった。4月入学早々、主力選手の中に入って練習をし、練習試合でも出場機会を増やしていった長曽我部は、夏にはショートのレギュラーをつかんだ。背番号は「6」。ショートの候補にはもうひとり、3年生の先輩がいた。だが、監督は1年生の長曽我部を選んだのだ。その理由を、岡田はこう語っている。
「総合的に見て、監督は長曽我部を選んだんだと思いますよ。バントなど小技もできて、打線として機能していましたからね」
 かくして、長曽我部にとって初めての夏の愛媛県予選が始まった。

 初の公式戦で浴びた洗礼

 順風満帆に思えた高校野球生活だったが、長曽我部は初戦でいきなり洗礼を浴びるかたちとなった。この試合、長曽我部は緊張で動きがかたく、守備でエラーを記録するなど、いつものプレーができなかった。攻撃でも2度、チャンスでまわってきたが、凡打に終わった。
「1死一、三塁でセカンドゴロに倒れてゲッツーになったり、2死二、三塁でショートゴロに終わったり……。得点のチャンスを2度もつぶしてしまいました」

 試合は8回表を終えた時点で0−2。新田は予想外の苦戦を強いられていた。すると8回裏、ネクストバッターズサークルで打席を待っていた長曽我部にスタンドから厳しい声が飛んだ。
「おい、もう代われ!」
 その言葉に長曽我部は大きなショックを受けた。
「高校初の公式戦ということもあって、結構その言葉はきつかったですね。実際、その試合では全然いいところがなかったですし、正直やめてしまいたくなりました。でも、ここで折れたらダメだと自分に言い聞かせんたんです」

 前の打者が内野安打で出塁し、長曽我部に打順がまわってきた。「なんとかして後ろにつなげよう」。そう思いながら打席に入った長曽我部は、粘った末に四球を選んだ。無死一、二塁。するとここから新田の反撃が始まったのだ。長曽我部の次の打者がヒットで出塁し、満塁とすると、押し出し四球で1点を返した。さらにタイムリーが続き、相手のミスもあって、新田はこの回一挙5点を奪って逆転に成功したのだ。
「ヒットは打てませんでしたが、四球でなんとか出塁した時は、正直ほっとしました(笑)。この打席も凡打に終わったら、また何を言われるかわかりませんでしたから」
 9回表、新田は東予打線をゼロに抑え、逆転勝ちで初戦突破を果たした。

 我慢の末の粉砕骨折

 2回戦の松山東戦で、ようやく長曽我部にもヒットが生まれた。打順は2番から8番に下がったものの、それがかえって精神的余裕を生み出しのだろう。2点リードで迎えた4回表、長曽我部の二塁打がタイムリーとなり、追加点を奪った。
「カーブかスライダーだったと思うんですけど、変化球を思い切り振って、右中間にツーベースを打ちました」

 ところが、公式戦初ヒットの喜びも束の間、試合中盤に死球を右足に受けた。これが後々、思わぬ大ケガとなる。だが、この時はまだ知る由もなかった。
「オマエ、痛いフリするな。そんなもん我慢せぇ!」
少しでも足をひきずるようなしぐさをすると、スタンドからは父親の厳しい声が飛んできた。
「思った以上に痛いなとは思いましたが、交代するなんて父が許しませんし、我慢して出続けたんですけど……」
 その無理の代償は決して小さくはなかった。

 2回戦を7−3で快勝した新田は、3日後、3回戦に臨んだ。川之江との試合は、中盤までは互いにゼロ行進が続く投手戦となった。均衡が破れたのは5回裏。長曽我部のタイムリーで、新田が1点を先制した。アクシデントが起こったのはその直後だった。一塁に向かって走っていた長曽我部の右足から「パキッ」という嫌な音が聞こえた。その瞬間、右足に力が入らなくなったのだ。試合後、病院で診察を受けた長曽我部に下された診断は粉砕骨折だった。その日以降、試合どころか、練習も休まざるを得なくなってしまった。

「走れなくても、できることはあるぞ。座ったままだって、スイングはできるんだ」
 練習ができずに落ち込んでいた息子に、父・大介はいつも通り、厳しい言葉を投げかけた。だが、粉砕骨折をしていた息子に「痛いフリをするな」という言葉を投げた自分を反省していなかったわけではなかった。悪いと思っているからこそ、息子の体力が落ちないようにあえて厳しい言葉を投げたのである。

 そして、少しでも早く練習に戻って元気になってもらえるよう、大介は高校の近くにある総合病院に毎日息子を連れて行き、高気圧酸素治療を受けさせた。そのおかげで、全治2カ月と診断された長曽我部の右足は、1カ月強で練習に参加できるようにまで回復したのだ。すぐにレギュラーに復帰した長曽我部だったが、ショートのポジションには同級生が入っていた。ショートストッパーであることにプライドをもっていた長曽我部だったが、右足への負担を考え、秋季大会は動きが広範囲なショートではなく、長曽我部にはサードのポジションが与えられ、ピッチャーも兼ねていたことから背番号は11番となった。
「その時にショートのレギュラーになったのが同級生でしたから、悔しさと焦りがありました。でも、背番号6を取られたのは、ケガをした自分が悪いのだから、絶対に春には取り返そうという気持ちでした」
 果たして翌年の春、長曽我部は再びショートのポジションを不動のものとしたのである。

(第4回につづく)

長曽我部竜也(ちょうそかべ・たつや)
1992年7月19日、愛媛県生まれ。4歳上の兄の影響で幼稚園の時からソフトボールを始める。小学2年の途中から地元のリトルリーグに、小学6年の途中からボーイズリーグに入る。新田高校では3年夏に県大会で4強入り。亜細亜大学では3年春からショートのレギュラーをつかみ、26打数10安打、打率3割8分5厘で首位打者に輝く。4年となった今年は副将を務め、チームの主力として活躍。春は打率3割3厘、15打点で、戦後史上初の6季連続となる23度目の優勝に大きく貢献した。170センチ、65キロ。右投左打。

(文・写真/斎藤寿子)


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