水難事故に遭う確率は水着の時よりも着衣の時のほうがはるかに高い。警察庁によると(平成25年調べ)事故発生状況は釣りや魚取りの最中が29・6%、通行中が13・9%、水泳中は10・1%だ。
 ならば最初から着衣のまま泳ぎの練習をした方がいいのではないか。そのようにも思うが、体育の水泳の授業は原則として水着が基本である。
「速いタイムで泳ぐことよりも、まずは自分の命を守れる泳ぎを身につける。こちらの方が大切ではないでしょうか。私も子供を産んでから、そのことの重要性に気がついたんです」。こう語るのはバルセロナ五輪女子200メートル平泳ぎ金メダリストの岩崎恭子である。「今まで生きてきた中で一番幸せ」との名文句で一世を風靡した少女も、今では一児の母だ。

 彼女が初めて着衣泳に臨んだのは、今から10年ほど前のことだ。あるテレビ番組での企画だったが、水着での泳ぎとは勝手が違っていた。もっと言えば水泳と着衣泳は似て非なるものだった。「この事実を、大人は知っておく必要がある。特に水泳に関わっている私たちは…」

 以来、着衣泳の普及を自らのミッションに課した岩崎だが、周囲の反応は想像していた以上に冷ややかだった。「岩崎さんには(着衣泳よりも)子供が速くなる泳ぎを教えてもらいたいんです」。面と向かってそう言われたこともあった。中には「プールが汚れる」とあからさまに難色を示す管理者もいたという。

 岩崎は語る。「水が怖いと、どうしても人間は無駄な力を入れてしまう。これだと体はどんどん沈んでいくんです。うまく力を抜けば、自然に体は浮いてくる。そのコツを知っておくだけで、いざという時に役立つはずなんですが…」

 聞けば海洋国家で運河の多いオランダや英国などでは水難事故防止のため、子供の頃から着衣泳に親しむことを勧めているという。衣服や靴には浮力と保温効果があり、ある意味、これは落水時の命綱でもあるのだ。

 このように着衣泳を、いざという時の“水の護身術”と考えれば、導入に消極的になる理由はない。日本水泳連盟会長の鈴木大地も着衣泳を普及させたいと広言している。命を守る教育。学校体育にも取り入れるべきではないか。

<この原稿は14年9月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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