中村武彦は、NEC現地法人立ち上げの研修でアメリカの首都ワシントンDCに滞在していた。
 ある日、昼休みに何か食べようとオフィスから出た。すると、ジャージを着た男たちが食事をしているのが目に入った。聞こえてくる話から判断すると、サッカーチームの関係者のようだった。さらに会話を聞くと、DCユナイテッドというメジャーリーグサッカー(MLS)の選手たちだと分かった。
(写真:中村が実際に購入したDCユナイテッド対カンザスシティ戦のチケット。提供=中村武彦)
 転職はキャリアアップという発想

 MLSはアメリカW杯の2年後、1996年に発足した。DCユナイテッドは、発足当時からの加入クラブで、ワシントンDCを本拠地としていた。オフィスに戻って調べると、週末にロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアム(RFKスタジアム)で試合があることが分かった。これはいい機会だと思った中村はチケットを手配して見に行くことにした。

 RFKスタジアムは、野球のワシントン・セネタースやアメリカンフットボールのワシントン・レッドスキンズも使用していた市営の多目的スタジアムである。観客は2万人ほど入っていただろうか。DCユナイテッドには、ボリビア代表だったマルコ・エチェベリ、16歳でプロ契約を結んだことで話題となっていたボビー・コンヴェイなどがいた。試合を見ながら、中村は懐かしい、落ち着いた気持ちになっていた。

 自分はサッカーにずいぶん助けられてきていた。米国でも日本でもサッカーをきっかけに多くの友人が出来た。自分がサッカーを始めた米国にプロリーグがあるというのは感慨深かったのだ。

 もし、ここで働くことが出来たら、と中村は思った。
(海外で働くこと、サッカーを仕事にすること、自分の希望はすべて叶うな)
 しかし、それが現実になるとは思えなかった。
 仕事として国外に行くと、旅行とは違った質の出会い、刺激があるものだ。NECの現地関係者と食事をしながら、雑談をしていると、多くの人間が転職を繰り返していることに中村は気がついた。

 1人の社員は、NECで働く前は船乗りをしていたという。この頃、まだ日本では大手企業に入社した場合は、退職まで居続けるという終身雇用が一般的だった。船乗りから電機メーカーへの転職はあり得ない。

 転職はマイナスではなく、キャリアアップになるのだという発想が新鮮だった。中村はNECに入社したのだから、退職までここで働かなければならないと思い込み、窮屈になっていたような気になった。

 スポーツマネージメントとの出合い

 日本に戻ると、また以前と同じ生活が待っていた。
 通勤電車に揺られていると、中吊りに中田英寿の顔写真が飛び込んできた。
 中田は98年フランスW杯に出場した後、イタリアのペルージャに移籍、その後、名門ASローマでプレーしていた。77年1月生まれの中田は中村とは同じ学年に当たる。
(同じ日本人で同じ年で、同じ時期にサッカーをやっていた。たぶん中学のときは向こうも全中〈全国中学校選手権〉を目指していた。あのとき、舞台はそれほど変わらなかった。それがどうだろう。確実に今の彼は凄い)

 中村は中田に劣等感を感じた。
 大学までは毎日サッカーをするのが当たり前だった。就職以降、ボールを蹴るのは週末のみ。体力が落ちていけば、自然とサッカーから離れていくのだろうかと、寂しい気持ちになっていた。

 自分はやはりサッカーに関わる仕事をしたいのだ。そう思った中村は転職活動を始めることにした。
 しかし――。
 広告代理店、スポーツメーカー、サッカーと直接関わる可能性のある企業を受けたが、全て落ちた。ただ、その中で電通の人間がこう言ってくれた。
「うちでは採れないけど、広瀬一郎というのがスポーツナビゲーションというのを作ったので、会ってきたらどう?」
 中村は広瀬に会うことにした。

 広瀬は55年に静岡県三島市で生まれている。東京大学法学部を卒業後、電通に入社。トヨタカップ、キリンカップ、W杯など多くのサッカー、スポーツイベントを担当している。2000年、電通を退社してスポーツナビゲーション(スポナビ)を設立していた。

 スポナビはスポーツのポータルサイトの嚆矢と言える存在だった。
 広瀬、そして右腕的存在だった、野村総合研究所から来た本間浩輔と会うと「丁稚奉公みたいな感じで良ければ、うちにおいで」と言ってくれた。

 昼間はNECで働き、夜はスポナビの手伝いという日々が始まった
 そんなある日、小さな新聞記事が中村の目に留まった。IMG東京のことを紹介する記事だった。
 IMG(インターナショナル・マネージメント・グループ)は弁護士のマーク・マコーミックがプロゴルファーのアーノルド・パーマーと始めた世界的なスポーツマネージメント企業である。

 中村はそれまでIMGという企業を知らなかった。
「“スポーツのマネージメント? そういうのがあるんだ”と。それから色々と調べて見ると、海外にスポーツマネージメントを教える大学院が沢山あることが分かったんです。そこに行けば、海外で、そしてスポーツを仕事にできる。留学の憧れもあったので、(海外の大学院に)行こうと決めました」
 中村は当時を振り返る。

 そして、中村はNECに辞職願いを提出した。01年10月のことだった。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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