2002年の2月――。
 中村武彦はマサチューセッツ州立大学アマースト校アイゼンバーグビジネススクール、スポーツマネジメントの大学院入試を受けていた。その面接の中で、将来について聞かれた。
「大学院を卒業した後、将来はどうしたいか?」
 予想された質問だった。中村は躊躇なく「メジャーリーグサッカーで働きたいです」と即答した。
(写真:大学院でともに学んだ仲間と教授陣 提供=中村武彦)
 すると、面接官は怪訝な顔になった。
「メジャーリーグサッカー? メジャーリーグベースボールの間違いではないのか?」
「いや、メジャーリーグサッカーです」
 中村は言い返した。
 当時のアメリカの大学院ではサッカーはそんな扱いだった。

 スポーツ産業の本場へ

 それでも中村が、欧州でなくアメリカの大学院を選んだのは理由がある。
「スポーツマネジメントいうのはメソッド(手法)なんですね。経営学、経営手法の上に野球、バスケット、アメフト、ホッケー、などの競技がある。アメリカはスポーツ産業が最も進んでいます。その根本になる経営手法を知りたかった。ヨーロッパもそのメソッドを輸入している。その経営手法を使ってアメリカではサッカーをどう大きくしようとしているのかを見たかった」

 大学院の入試は、TOEIC(国際コミュニケーション英語能力テスト)、SAT(大学適性試験)で一定の得点を獲るが必須要件で、その他、論文、面接がある。
「論文といっても分量的には、2、3枚です。何を勉強したいのか、大学院に行くことによって自分のキャリアにどう影響するのか」

 中村は論文で、将来はアスリートの現役引退後を助ける職に就きたいと書いていた。
「当時はセカンドキャリアという概念も言葉もなかったんです。引退した選手が活躍できるような就職斡旋の会社を作りたいというようなことを書きました」

 中村は第一志望だったマサチューセッツ州立大学大学院経営学部・スポーツマネジメント修士課程に合格した。
「正直なところ、スポーツマネジメントってすごく自分の選択を狭めてしまったという意識もあったんです。もしスポーツマネジメントに興味が持てなかったら、潰しが効かない。ところが、実際に入ってみると、スポーツに関するあらゆる授業があった。スポーツマーケティング、スポーツ法、スポーツ社会学、スポーツ組織論、スポーツファイナンス、スポーツイベント運営……。スポーツ業界にはありとあらゆる分野があって、こんなに広いんだという風に感じましたね」

 印象深い試験問題

 アメリカの授業の進め方は、日本と全く違っていた。
「日本だと授業で教えてもらったものを後から復習する。一方、アメリカでは事前に渡された本を予習して、授業中にどうだったか訊ねられる。どんな意見でもいいんです。間違っているとは言われない。ああ、そういう考えね、ということになるんです。みんなの意見をディスカッション(議論)して、先生と一緒に深めて結論を出していく。まず予習をしていないと授業に参加できない。そして自分の意見をきちんと言えないと駄目なんです」

 中村がマサチューセッツ州立大学アマースト校を選んだ理由の一つは、生徒数に対して教員の数が多いことだった。
「マサチューセッツの大学院を選んだのは生徒数を絞っていることでした。生徒15人ぐらいに先生が13人ぐらいという感じ。ほぼ1対1なんです。授業中、必ず当てられるんです。何も言わないと目に付く。そこはしんどかったですね。英語は錆び付いていたし、読む量が全然追いついていかない。今考えると勿体ないんですけれど、テキストを斜め読みして、ここかなと予測してなんとか授業についていっていました」

 大学院に入ってしばらくした頃のことだ。中村が今も忘れない「試験」がある。
 試験の出題はこんな風だ。
<貴方はオリンピック競技のマーケティング担当です。広告代理店が総額5000万円のスポンサーパッケージを持って来ました。しかし、予算は2000万円しかありません。貴方はどうしますか?>

 中村は、この問題を読んだとき、出題の意図が分からなかった。2000万円しかないのだから、5000万円のパッケージを買うことはできない。
「当時のぼくは本当に固い頭でした。2000万円しかないのに、5000万円のパッケージは買えない。他に何も策が浮かばなかった」

 中村は答えを絞り出したが、良くない成績が返ってきた。同級生の答案を見ると、実にさまざまな答えが書かれていた。
 たとえば、オリンピックが世界何カ国で放映されるかを考えれば、看板だけで十分である。他はいらないのでパッケージのうち看板だけ2000万円で交渉する――といった類だ。中には荒唐無稽ともいえる答えもあった。しかし、それらは中村よりもいい得点が付けられていた。
 
 これじゃ何でもありじゃん、こんな答えでいいのかと中村は憤然とした。
 すると、教授はこう言ったのだ。
「2000万円しかないので当然、5000万円のものは買えません。与えられた情報の中から、どうやって工夫するか。何も書いてもいいんです。論理破綻せずに自分なりのアイディアを出すことが大切」
 
 中村は自分が物事を堅苦しく考えていたのだと、目の前がぱっと明るくなるような気がした。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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