角界からプロレス入りし、39年間にわたってリング狭しと暴れ回った天龍源一郎が、今年11月限りでの現役引退を発表した。
 引退の理由は65歳という年齢からくる衰えではなく、妻・まき代さんの看病。記者会見では「身をひいて今度は私が支えていく番じゃないかと思った」と静かに語った。


 プロレス人生で最も思い出に残っている試合としては「馬場さんと猪木さんからフォールできたことがオレの中の誇り」と神妙な表情で答えた。
 全日本プロレス時代、天龍が敵意をむき出しにしたのがジャンボ鶴田である。鶴田といえば、レスリングのグレコローマン100キロ以上級で1972年のミュンヘン五輪に出場した経験を持つ全日本プロレスのエリート。反骨心旺盛な天龍にしてみれば、いわゆる下剋上の対象だった。

 当時、天龍は胸の裡を、こう披露した。
「ジャンボは自他ともに認める天才。しかし、それがオレには気に入らなかった。正直、“こいつ、いい加減な仕事ばかりしやがって!”と思っていました。
 もっと言えば、ジャンボ個人に対してというより、そうした仕事ぶりを許している全日本プロレスの方がおかしいと思った。
 よし、だったら、この会社をオレの力で変えてやる。持ち前の反骨心が、急にメラメラと燃え始めた。そして、その気持ちがジャンボにも乗り移った。
 お互い、コイツだけには負けたくない。オレもジャンボも、そういう気持ちで試合をしましたよ。もう、真正面からガンガンやり合いました。相手をやっつけるというよりも、もうお互い、後には退けないという思いの方が強かったですね」

 ジャイアント馬場が提唱した「明るく激しく楽しいプロレス」は、天龍がいたからこそ可能だった。観る側も「痛み」を共有できるプロレス――それが“天龍革命”の真骨頂だったと言えよう。

 個人的には元ラグビー日本代表の阿修羅・原との“龍原砲”が好きだった。ともに不器用で、野球のピッチャーで言えば剛速球一本槍。変化球を良しとはしなかった。
 それが多くのファンに支持されたのは、跳んだりはねたりが主流になりかけていたモダンプロレスへのアンチテーゼが、そこにあったからだろう。

 プロレスラーほど引退の時期が難しい職業はない。やろうと思えば、何歳でもできる。同世代の長州力や藤波辰爾は、まだ時折リングに上がっている。
 ある意味、天龍のように「腹いっぱいの楽しいプロレス人生でしたよ」と言えるレスラーは幸せかもしれない。

 勤続疲労なのか、声はかすれ、聞き取りにくい。それでも引退後は解説席に座って欲しいと思う。
 味のある毒舌でテレビ桟敷をうならせる大相撲の北の富士のような存在がプロレス界にはいない。天龍にはうってつけの役だと思うが、いかがだろう。

<この原稿は『サンデー毎日』2015年3月8日号に掲載されたものです>


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