向かい風の選択 反町康治
今季の明治安田生命J1リーグは7日に開幕する。初のJ1に挑む松本山雅FCは2010年の王者・名古屋と対戦する。松本は分厚い戦力とは言えないだけに、反町康治監督の手腕がかかる部分は大きい。反町は新潟、湘南、松本と3クラブで指揮を執り、J1昇格に導いた。北京五輪代表監督を務めるなど、指揮官としての経験は豊富だ。現役時代はMFとしてプレー。リーグがプロ化されても、あえてアマチュアであることを選んだ。異色のプレーヤーだった反町のメンタリティーを、93年の原稿で振り返る。
<この原稿は1993年6月号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>
「時代に逆行していると思われるかもしれないが、それは仕方がない。自分の決めたことですから」
練習中に傷めた右足首を氷で冷やしながら、反町康治は決然とした口調で言った。
「それにしても、プロ化っていうのはすごいですね。プロ化された途端、選手の目の色が全く違ったものになりましたよ」
反町はプロ化されたJリーグの中でも数人しかいない。アマチュア選手のひとりである。横浜フリューゲルスの前身である全日空空輸の関連会社、全日空スポーツに出向社員として籍を置き、そこから収入を得ている。日本リーグがプロ化され、Jリーグと名をかえても、彼の立場は以前と何一つかわっていない。
「Jリーグになっても給料がかわらないのは僕だけですよ。残業手当がなくなった分、むしろ生活は苦しくなったかもしれない。立場はアマチュアでも、僕の職場はあくまでもグラウンド。サッカーイコール仕事だと頭の中ではきっちり割り切っています」
サッカーの名門・清水東を経て慶応大学に進んだ反町は、卒業の年、一般学生と同じようにリクルートスーツに身を包み、会社訪問をした経験を持つ。卒業を機にサッカーからは足を洗うつもりだった。大手商社からも入社内定の通知を得ていたが、彼は「会社自体が若く、国際的な仕事ができそう」という理由で、全日本空輸を選んだ。
入社したその年、全日空は海外に就航した。
反町が入社した時、全日空の社内チームである全日空サッカークラブは日本リーグの2部に所属していた。会社の上司に「どうだ、しばらくやってみないか?」と口説かれた反町は「自分でも通用するなら」という軽い気持ちで、ユニホームに袖を通した。その年、2部で優勝。翌年1部に昇格した全日空は、フォワードの前田治らの活躍で、いきなり2位に躍進する。それでも、当時のサッカー熱はまだまだ低く、サッカー関係者の間で全日空の活躍が話題になることは少なかった。選手への取材も数えるほどしかなかった。
1990年の春、ダイナスティカップ予選を前に反町は横山(謙三)監督が率いる日本代表の一員にも選ばれた。スキルフルなテクニックと敵陣のスペースに飛び込むことのできる独特な得点感覚が、攻撃サッカーを標榜していた横山監督の目に留まったのだ。ここでも、また一つ反町の夢は実現した。
若くて体が動く間サッカーをやり、引退後はキャリア組の一員として会社のためにばりばり働く――そう決めていた反町にとって、サッカーがプロ化するという話は寝耳に水だった。本当にそんなことが可能なのか。反町は半信半疑だった。閑古鳥の鳴いていたスタンドがプロと名をかえた途端に超満員の観衆であふれ返るなど、当時の反町には信じ難いことだった。
サッカーを取り巻く環境がすべて変化しているというのに、自分ひとりがかわらない。果たして、これでいいのか。不安と葛藤が頭の中で交錯する日々がしばらくの間続いた。
反町が述懐する。
「最初、Jリーグができるといってもピーンとこなかった。Jリーグというものの実体がいまいち把握できなかったんです。Jリーグというものを意識し始めたのは(昨年秋の)ナビスコカップからです。まさか、あんなに盛り上がるとは思ってもみなかった。正直言って、僕も悩みましたよ。この盛り上がりに乗って自分もプロになるべきかって。加茂(周)監督にも相談に行きましたよ。しかし、自分の中では29歳という年齢が引っかかった。ラモスのように36歳になってもやれるほどの力が自分にはありませんからね。おそらく、もう何歳か若かったらプロの道を進んでいたと思います。ただ肩書きこそ社員でも、やっていることはプロと一緒。
“アマだから”といって許されるものは何もない。その意味では、むしろプロよりも強いプレッシャーの中でプレーをしているという自負があります」
傷めている右足首のズボンのすそに氷のしずくがにじみ、ポトポトと床をぬらす。「かなり痛みがあるのでは?」と訊くと「いくら痛くっても痛いなんて言えないですよ。かわりの選手はいくらでもいるんですから」と反町は自分に言い聞かせるように言った。
アマでもあっても、いや数少ないアマだからこそ、彼は踏ん張らなければならないのである。
フリューゲルスは、Jリーグ初の公式戦となった昨秋のナビスコカップを全くいいところなく終えた。予選リーグ2勝7敗、得点10に対し失点22という屈辱的な最下位。加茂監督が理想とする戦略「ゾーンプレス」は絵に描いたモチに終わった。
ゲームキャプテであると同時に中盤でゲームメークを担当する反町には反省材料ばかりが残った。その反省を踏まえた上で、反町は言う。
「Jリーグで勝には、もっと攻守の切り換えを早くしなければならない。シンキング・スピードって言うんですか、それをもっと早くして、よりアグレッシブに、よりアクティブに、そしてよりアトラクティブなサッカーをやりたい。それにはチームの全員がセルフコントロールにつとめることです。サッカーをアクセサリーと考えているような選手は、今後、どんどん淘汰されることになるでしょう」
身分的にはアマチュアでも、反町の口にする言葉は、ある意味でプロの選手以上に強烈なプロフェッショナリズムに染められている。失敗したとしても逃げ場はなく、もちろん弁解なども許されるはずもない。彼はそのことを誰よりも強く自覚し、自らの選択に対し腹をくくっているようにすら感じられる。
「もし、サッカーを引退して会社に戻ったところで、相当のリハビリ期間がいるでしょうね。だって今は会社がどうなっているかさえ分からないんですよ」
反町はよく陽に焼けた頬をかすかに緩ませて、そう言った。
<この原稿は1993年6月号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>
「時代に逆行していると思われるかもしれないが、それは仕方がない。自分の決めたことですから」
練習中に傷めた右足首を氷で冷やしながら、反町康治は決然とした口調で言った。
「それにしても、プロ化っていうのはすごいですね。プロ化された途端、選手の目の色が全く違ったものになりましたよ」
反町はプロ化されたJリーグの中でも数人しかいない。アマチュア選手のひとりである。横浜フリューゲルスの前身である全日空空輸の関連会社、全日空スポーツに出向社員として籍を置き、そこから収入を得ている。日本リーグがプロ化され、Jリーグと名をかえても、彼の立場は以前と何一つかわっていない。
「Jリーグになっても給料がかわらないのは僕だけですよ。残業手当がなくなった分、むしろ生活は苦しくなったかもしれない。立場はアマチュアでも、僕の職場はあくまでもグラウンド。サッカーイコール仕事だと頭の中ではきっちり割り切っています」
サッカーの名門・清水東を経て慶応大学に進んだ反町は、卒業の年、一般学生と同じようにリクルートスーツに身を包み、会社訪問をした経験を持つ。卒業を機にサッカーからは足を洗うつもりだった。大手商社からも入社内定の通知を得ていたが、彼は「会社自体が若く、国際的な仕事ができそう」という理由で、全日本空輸を選んだ。
入社したその年、全日空は海外に就航した。
反町が入社した時、全日空の社内チームである全日空サッカークラブは日本リーグの2部に所属していた。会社の上司に「どうだ、しばらくやってみないか?」と口説かれた反町は「自分でも通用するなら」という軽い気持ちで、ユニホームに袖を通した。その年、2部で優勝。翌年1部に昇格した全日空は、フォワードの前田治らの活躍で、いきなり2位に躍進する。それでも、当時のサッカー熱はまだまだ低く、サッカー関係者の間で全日空の活躍が話題になることは少なかった。選手への取材も数えるほどしかなかった。
1990年の春、ダイナスティカップ予選を前に反町は横山(謙三)監督が率いる日本代表の一員にも選ばれた。スキルフルなテクニックと敵陣のスペースに飛び込むことのできる独特な得点感覚が、攻撃サッカーを標榜していた横山監督の目に留まったのだ。ここでも、また一つ反町の夢は実現した。
若くて体が動く間サッカーをやり、引退後はキャリア組の一員として会社のためにばりばり働く――そう決めていた反町にとって、サッカーがプロ化するという話は寝耳に水だった。本当にそんなことが可能なのか。反町は半信半疑だった。閑古鳥の鳴いていたスタンドがプロと名をかえた途端に超満員の観衆であふれ返るなど、当時の反町には信じ難いことだった。
サッカーを取り巻く環境がすべて変化しているというのに、自分ひとりがかわらない。果たして、これでいいのか。不安と葛藤が頭の中で交錯する日々がしばらくの間続いた。
反町が述懐する。
「最初、Jリーグができるといってもピーンとこなかった。Jリーグというものの実体がいまいち把握できなかったんです。Jリーグというものを意識し始めたのは(昨年秋の)ナビスコカップからです。まさか、あんなに盛り上がるとは思ってもみなかった。正直言って、僕も悩みましたよ。この盛り上がりに乗って自分もプロになるべきかって。加茂(周)監督にも相談に行きましたよ。しかし、自分の中では29歳という年齢が引っかかった。ラモスのように36歳になってもやれるほどの力が自分にはありませんからね。おそらく、もう何歳か若かったらプロの道を進んでいたと思います。ただ肩書きこそ社員でも、やっていることはプロと一緒。
“アマだから”といって許されるものは何もない。その意味では、むしろプロよりも強いプレッシャーの中でプレーをしているという自負があります」
傷めている右足首のズボンのすそに氷のしずくがにじみ、ポトポトと床をぬらす。「かなり痛みがあるのでは?」と訊くと「いくら痛くっても痛いなんて言えないですよ。かわりの選手はいくらでもいるんですから」と反町は自分に言い聞かせるように言った。
アマでもあっても、いや数少ないアマだからこそ、彼は踏ん張らなければならないのである。
フリューゲルスは、Jリーグ初の公式戦となった昨秋のナビスコカップを全くいいところなく終えた。予選リーグ2勝7敗、得点10に対し失点22という屈辱的な最下位。加茂監督が理想とする戦略「ゾーンプレス」は絵に描いたモチに終わった。
ゲームキャプテであると同時に中盤でゲームメークを担当する反町には反省材料ばかりが残った。その反省を踏まえた上で、反町は言う。
「Jリーグで勝には、もっと攻守の切り換えを早くしなければならない。シンキング・スピードって言うんですか、それをもっと早くして、よりアグレッシブに、よりアクティブに、そしてよりアトラクティブなサッカーをやりたい。それにはチームの全員がセルフコントロールにつとめることです。サッカーをアクセサリーと考えているような選手は、今後、どんどん淘汰されることになるでしょう」
身分的にはアマチュアでも、反町の口にする言葉は、ある意味でプロの選手以上に強烈なプロフェッショナリズムに染められている。失敗したとしても逃げ場はなく、もちろん弁解なども許されるはずもない。彼はそのことを誰よりも強く自覚し、自らの選択に対し腹をくくっているようにすら感じられる。
「もし、サッカーを引退して会社に戻ったところで、相当のリハビリ期間がいるでしょうね。だって今は会社がどうなっているかさえ分からないんですよ」
反町はよく陽に焼けた頬をかすかに緩ませて、そう言った。