プロから指名されなかった古田は社会人野球のトヨタ自動車に進む。これが結果的には吉と出た。
 日本代表メンバーに選ばれ、1988年のソウル五輪に出場。日本代表では野茂英雄、潮崎哲也、石井丈裕、渡辺智男らそうそうたるピッチャーのボールを受けた。
「これは自信になりました。というより“何で、コイツらがプロに行ってないんや?”と思ったものです。皆、ストレートは楽に150キロ前後出るし、変化球はビュッと曲がる。西村龍次や、湯舟敏郎もドラフト1位ですけど、彼らですら、あの頃の日本代表には常時、入っていませんでしたから」
<この原稿は2011年5月号の『小説宝石』(光文社)に掲載されたものです>

 89年のドラフトでヤクルトから2位指名を受け、プロ入り。ちょうど時を同じくして野村が監督に就任した。
 指揮官の野球を理解するため、本屋にあった野村の著作をすべて買ったというのは有名な話である。
「僕は当時24歳ということもあって、とにかく早く試合に出なきゃいけなかった。そのためには、監督に気に入られるというか、監督の目指す野球を理解しなければならない。そこで本屋に行ったら、野村さんの本が4冊あった」

――本の中で印象にのこっているくだりは?
「ひとつ役に立ったのは<足の速いキャッチャーは大成しない>というくだり。詳しくは覚えていませんが、だいたい、こんな内容でした。<自分で言うのもなんだが、大成したキャッチャーは一に野村克也、二に森祇晶と言われている。この二人に共通しているのは足が遅いことだ>と。
 そして、こう続けていた。<足の速い選手はおっちょこちょいな性格を持つものが多いので、思慮深さが要求されるキャッチャーというポジションには向かない>と。
 僕がヤクルトに入った時、飯田哲也という俊足強肩のキャッチャーがいた。彼は僕より3つ年下でした。彼はバッティングも良くて、ユマ・キャンプのバッティングでは柵越えを連発していた。こっちは全然飛ばない。強力なライバルですよ。
 でも僕には妙な余裕があった。こいつ、監督好みのキャッチャーじゃないから、いずれコンバートされるだろうなと(笑)。案の定、春先に二塁へコンバートですよ。野村さんのいう適材適所ってヤツでしょう。周りは驚いていたようですうが、僕は野村さんの本を事前に読んでいたので少しも驚かなかった」

 入団した年、キャンプイン前日の野村のミーティングは古田にとってカルチャーショックそのものだった。
「今でも忘れられない」
 そう言うのだから、よほどインパクトが強かったのだろう。
「普通なら“監督の野村です。オレはこういう野球をやる。だからキミたちはこうしてくれ”。だいたい、こんな感じでしょう。
 ところが野村さんは違った。僕たちがペンとノートを持って机の前で待っていたら、ドアがガチャーンと開いて、バーンと監督が入ってきた。
 そのままホワイトボードの前に行き、いきなり“耳順”って書いたんです。この間、一言もなし。そしてマジックをバーンと置いて、僕たちの方へ向き直り、こう言いました。“おい、この言葉を知っているヤツ、手を挙げい!”。こんな言葉、誰も知るわけがない。基本的に野球選手は勉強が嫌いですから(笑)」

 耳順――。これは論語に出てくる「六十而耳順」という一節で「60歳になると、人の言うことを逆らわずに聞くことができる」という意味である。
 自著『勝者の資格』(ニッポン放送プロジェクト)で野村はこう述べている。
<本来、私がよく色紙に書く「六十歳」を意味する「耳順」は、完成された人間が他人のいうことを耳に逆らうことなく素直に聞く、という意味である。
 けれども私の場合、今までが不勉強であり、無知なので、とても完成どころではなく、にっこり微笑みつつ穏やかに聞くことなんてことはとてもできない。
 むさぼるように聞く。
 身を乗り出して聞く。
 顔を輝やかして貪欲に聞く。
 とにかく今は、こんなふうに人の話を聞いている。あらゆる職業、あらゆる階層の人の話が面白くてたまらない。なぜ面白いのかといえば、それによって私の「無知」が一つ減り、わずかながら成長できるからである。その限りにおいて、私は今も賢くなりつつある、といったのだ。
 私はよく選手たちに、「無知」を自覚せよ、自分はモノゴトを知らないことを知れ、とやかましくいう。野球以外のいろいろなことを知ることによって「無知」が自覚できるのだ、と>

 話を野村のミーティングに戻そう。全員が下を向いていると、野村はニコリともせずにこう吐き捨てたという。
「人間として成長しなかったら、野球なんか成長しないんだ。ボケェ!」

 古田の回想。
「野村さんは要するにミーティングを通じて自分の求心力を高めたかったんだと思うんです。オレがリーダーなんだと。
 ご本人が“監督の一番、大事な仕事は人間教育”と語っているように、まず学ぶ姿勢を教え込む。ここは徹底していましたね」

 キャッチャーは優秀な心理学者であらねばならない。投手心理、打者心理に加え、味方ベンチの心理、相手ベンチの心理、さらにはアンパイアの心理まで読んで配球を組み立て、ゲームをコントロールしていかなねばならない。
 18年の現役生活で古田の頭脳が光った場面を2つ紹介しよう。まずは95年、オリックスとの日本シリーズだ。
 このシリーズ、メディアは「イチロー対古田」という図式を描いた。結論から言えば、古田のリードが冴えわたり、イチローを19打数5安打に封じた。打率にすると2割6分3厘。シリーズも4勝1敗とヤクルトに軍配が上がった。

 いったい、どのようにして古田はイチローを封じたのか。
「1995年といえば阪神大震災のあった年で、街をあげて“がんばろう神戸”で一丸となっていた。日本中がオリックスの味方という感じで、正直言って“このチームに勝っていいのかな”という雰囲気が漂っていました」
 こう前置きして、古田は続けた。
「しかし僕らにもファンはいるわけだし、負けるわけにはいかない。では、どうすれば勝てるか。シーズンが終わって日本シリーズが始まるのに10日間くらい間があった。その10日間で“イチロー頼むぞ”という気運がものすごく盛り上がってきた。“ヤクルトやっつけてくれよ”と。
 そこで僕は考えた。これだけ期待がかかるとイチローの身に何が起きるか。“打たなきゃダメだ”というプレッシャーが日増しに強くなっていくはずなんです。本来、彼の仕事は出塁することなんだけど、もうそれだけではファンは満足してくれない。フォアボールではファンをがっかりさせることになるんです。
 そうなるとストライクは必要ない。たとえばフルカウントになったとします。シーズン中だとボール気味の球なら見送ってフォアボールを選ぶでしょう。
 でも、もうそれじゃファンは許してくれない。球場中が“頼むぞイチロー!”となっているわけですから。だから僕はフルカウントからでも、あえてストライクを要求しなかった。ボール気味の球でも、今のイチローの心理状態ならバットを振らざるを得ないだろうと思っていましたから。
 案の定、イチローはボール気味の球に手を出し、勝手に調子を崩してくれた。狙いがピタッとはまったシリーズでした」

 もうひとつが2001年7月18日、神宮での広島戦である。
「再生工場」とは師である野村の代名詞だったが、愛弟子も負けてはいない。その典型的な例が巨人をクビになった入来智である。
 4回表、1死一塁の場面で入来−古田のバッテリーは5番ルイス・ロペスを打席に迎えた。広島で最もチャンスに強い要注意のバッターである。
 できればゲッツーに切ってとりたいところだが、ひとつコースを間違うと長打を浴びかねない。
 ここで古田は真ん中にミットを構えた。サインはストレート。体をインサイドに寄せることすらしない。
 入来はギョッとした。巨人なら、ここではセーフティファーストのスライダー。インコースのボールを求めるなら、キャッチャーは体を右バッターに近づけて、指示を徹底する場面である。
 ところが古田のミットはど真ん中に置かれてあり、しかもサインはストレート。すなわち切迫した場面で“ど真ん中のストレート”を球界一の知性派キャッチャーは力投派に求めたのである。
 ここが踏ん張りどころと気を引き締め直した入来は、古田のミットめがけて、腕を目一杯振った。力むとボールがシュート回転するのが彼のクセである。
 入来の投じたストレートはナチュラルのシュートがかかり、ロペスの胸元をえぐった。
 鋭い音を発した打球はサード岩村明憲の前に力なく転がり、結果は5−4−3のゲッツー。ピンチの芽を絶妙のリードで摘み取った。古田はベンチに帰ってくるなり、こう叫んだ。
「計算通りや!」

 このシーンを解説してくれたのが、バッテリーコーチの中西親志である。
「さすが古田だと思いましたね。古田は入来が力むとボールにシュート回転がかかるのを知っていて、あえてど真ん中にミットを構えた。彼はピッチャーの特性をすべって把握していて、ここぞという場面でそれを引き出すんです。言い方をかえれば入来はうまく古田に操られた。こんな高度なリードができるのは古田くらいのものでしょう」
 この年、入来は10勝(3敗)をあげ、ヤクルトの日本一に貢献した。

 古田のリードには上質のミステリーを読むような趣がある。何度、話を聞いても新鮮な発見があるのは、現役時代、頭脳と五感を駆使してきた何よりの証拠に他ならない。
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