人事異動の季節である。去る人もいれば、来る人もいる。会社や役所では別れを惜しんで送別会花盛りだ。
 球団間のトレードは、いわばプロ野球界における人事異動である。本来は双方に利をもたらすものであるにもかかわらず、かつては「放出」という言葉が示すように、どちらかというとネガティブなイメージが強かった。
 1975年、カープを球団創設26年目にして、初めてリーグ優勝に導いた古葉竹識は69年オフに球団から「南海から話がきている」と告げられた際、「僕はやめます」と真っ向からトレードを拒否した。「だって、そうでしょう。12年もカープ一筋でやってきて、チームには愛着があった。弱いチームなのに熱狂的なファンが多く、中には家族付き合いしている人もいた。球団に骨を埋めるつもりでした」

 ある日のことだ。ひとりの知人がポツリと言った。「古葉さん、これからはパ・リーグの野球を知っとった方がええんじゃないですか。野球はセ・リーグだけじゃないんやし……」

 当時、巨人を中心としたセ・リーグとパ・リーグでは人気の面で大きな格差があり、口さがない者はパへのトレードを、声を潜めて「都落ち」と言った。すなわち「左遷」である。

 しかし人生、何が幸いするかわからない。国貞泰汎とのトレードで南海に移籍した古葉は、プレーイング・マネジャーの野村克也とヘッドコーチのドン・ブレイザーから多くのことを学ぶ。

<打者がどういうボールを好んで打っているか? 打球はどの方向に飛ぶことが多いのか? 投手はどんなカウントでどのボールを投げるのか? 初球はどの球種を投げることが多いのか? 今でこそ当たり前となっていることですが、当時はそういうデータを重視するチームはあまりありませんでした>(自著『耐えて勝つ シンキング・ベースボール』より)

 古巣に戻り、コーチとして守備走塁面を担当していた古葉が75年、ジョー・ルーツの突然の辞任を受け(野崎泰一投手コーチが監督代行として4試合を指揮)、監督に就任したのは、今にして思えば“天の配剤”だったのか。カープの6度のリーグ優勝のうち4度は古葉が成し遂げたものだ。

 別れを悲しむな、出会いを喜べ――。それこそは名将が球界の人事異動から得た教訓である。

<この原稿は15年3月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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