2005年2月14日、中村武彦は8カ月のインターンを経て、メジャーリーグサッカー(MLS)に採用された。
 日本人はもちろん、アジア人として初めてのことである。
(写真:ニューヨーク・レッドブルズの本拠地、レッドブルアリーナ Photo Courtesy of Major League Soccer)
 長期的視野に立ったリーグ経営

 MLSでは国際部に配属された。前回の原稿で触れたように、MLSは02年にサッカー専門のマーケティング会社「サッカー・ユナイテッド・マーケティング」(SUM)を立ち上げている。中村の名刺の表には〈MLS国際部〉、裏返せば〈SUM国際部〉と書かれていた。2つの会社は表裏一体の関係にあった。

 中村はこのSUMがMLSの発展の鍵だったと考えている。
「SUMは国際サッカー連盟(FIFA)からワールドカップのアメリカ国内向けの放映権を購入したほか、メキシコ代表のアメリカツアーなどサッカーに関するさまざまな権利を獲得しました。例えば、お客さまがアメリカ在住のヒスパニック系に向けて、メキシコ代表のツアーに看板を出したいと提案があったとします。すると、このツアーを入れた広告パッケージの中にMLSを入れる。結果として、MLSに資金が流れることになります」

 MLSは立ち上げ時期のカルロス・バルデラマ(当時コロンビア代表)以降、07年にデビッド・ベッカム(当時イングランド代表)がロサンゼルス・ギャラクシーに加入するまで、ローター・マテウス(元ドイツ代表)、フリスト・ストイチコフ(元ブルガリア代表)、ユーリ・ジョルカエフ(元フランス代表)などの例外を除けば、世界的に知られた選手を獲得していない。

 95年のボスマン裁定以降、サッカー選手の年俸は高騰していた。そんな中、MLSは全選手の総年俸の上限、そして個人選手の年俸の上限を定めた、サラリーキャップ制を導入していたこともあり、そうした争いに加わることはなかったのだ。

 これはリーグ経営において長期計画を重視しているからだと中村は解説する。
「スポーツビジネスのメソッドの基本は、勝敗を売らないこと。MLSでは総収入に対して適正な額しか選手に使わない。もちろん、勝つことは大切です。しかし、リーグ及びクラブの経営が安定するまで、勝利は優先順位の最上位ではない。勝ち負けはコントロールできませんから。ある時点まではリーグの基盤作りに集中すべきだと割り切っていたのです。一方、選手は現役生活が限られており“今”が重要。リーグやクラブの中長期展望とのバランスは永遠の課題です」

 中村はこう続ける。
「また、MLS躍進のきっかけのひとつはクラブにスタジアムを所有することを義務づけたこと。そして、きちんとビジネスのできるスタッフを雇ったことです。例えば年俸1億円の選手を獲得したとします。しかし、その選手が1億円分の効果を生み出したかどうかを明確に判定しずらい。逆に年収1000万円で、年収以上の営業成績を上げられる人間を10人雇ったほうが、その効果は明らかで経営の安定に繋がるという考えです。もちろん、クラブ経営はそれほど簡単な話ではありませんが、スタッフを重視するという発想は欧州などのクラブにはありませんでした。それらがクラブ側の経営努力だとすれば、リーグ側は他のサッカーの権利と一緒にパッケージしてリーグ全体を売り込むこと」

 バルサのツアーや国際大会を運営

 中村が国際部で与えられた役割は、アメリカにやってくる代表チーム、クラブチームのマッチメイク及びチケットセールスだった。
「年間30試合ぐらい組みましたので、普通のクラブチームのホームゲーム数よりも多いですね。メキシコ代表、イングランド代表、アルゼンチン代表。メキシコのチームのチーバスなどもありましたね。出場交渉からスタジアムや練習場、ホテル、現地スタッフの確保からチケット販売、現地での運営まで全て任されていました」

 そして、MLS、そしてSUMはアジアにも眼を向けている。中村が必要とされたのは、その流れの一環だったろう。
 05年、Jリーグのクラブとして初めて横浜F・マリノスがアメリカツアーを実施、中村はその担当者だった。

 そして08年、『パンパシフィックチャンピオンシップ』を開催している。これはアメリカ、日本、オーストラリアなど環太平洋諸国のクラブチームを集めた国際大会である。この大会は中村のマサチューセッツ州立大学アムハースト校アイゼンバーグビジネススクールでの卒業論文に基づいたものだった。
 初年度の大会には、MLSからロサンゼルス・ギャラクシーとヒューストン・ダイナモ、Jリーグからガンバ大阪などが参加している。G大阪は決勝でヒューストンを下して初代王者となった。

 もちろん、SUMはサッカーの本場である欧州とも仕事をしている。
 08年、SUMはFCバルセロナのアメリカツアーをマネージメント、テキサス州ヒューストンに7万人以上の観客を集め、同州におけるサッカーの観客動員記録を更新した。

 このツアーは中村が担当している。
「バルサとはアメリカツアーの5年契約を結ぶことになり、頻繁にやりとりするようになりました。たまたまバルサのオフィスが同じビルにあったんです」
 バルセロナはニューヨークのオフィスを開設したばかりだった。中村は、バルセロナFCで働かないかと声を掛けられたのだ。

 ヘッドハンティングである――。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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