語学を自分の身体に叩き込む最短かつ最良の方法は、母国語を遮断して、その言語の中に窒息するほど、どっぷりと浸かって生活することである。
 その意味で、中村武彦が選んだマサチューセッツ州立大学アムハースト校アイゼンバーグビジネススクールは、最適の環境だった。
(写真:MLS本部の受付 Photo Courtesy of Major League Soccer)
 学校のあるアムハーストは、人口37000人ほどの小さな街だ。街にはアムハースト大学、スミス・カレッジの三校がある、学生街である。
 街で最も高い建物は、28階建ての図書館だった。窓から下を覗くと、手前にほんの少しの市街地があるが、それから遠くは平原が広がっていた。夏休みになって、アメリカ人の学生たちが帰省すると、街から人気がなくなり、ゴーストタウンのようになった。

 マサチューセッツ州立大学には日本からの留学生がいたが、交流をする時間はほとんどなかった。中村は大学院の授業についていくだけで精一杯だったのだ。
 当然のことだったろう。日常会話とビジネススクールで使用する英語の質は違っている。中村は、本来は1年半で卒業するところ、2年間に延長した。自分は修了を急いでいるわけではない。少しでも知識を吸収したいと思ったのだ。

 論文執筆からインターンへ

 そんな厳しくも愉しい大学院の生活はあっという間に過ぎ、修士論文に取りかかることになった。
 当初の予定通り、中村はメジャーリーグサッカー(MLS)のアジア戦略を題材に取りあげることにした。その話を聞いた担当教員は、MLSで働いている卒業生を紹介してくれた。

 卒業生に連絡をとると、国際部のネルソン・ロドリゲスという男を紹介してくれた。中村はロドリゲスにメールを送り、ニューヨークで会うことになった。
 ニューヨークは、アメリカの他のどの街とも異質な、特別な街である。中心地のマンハッタンは、道が碁盤の目のように張り巡らされ、ぎっしりと無数の高層ビルが詰め込まれている。街を歩けば、白人、黒人、アジア系、全ての肌の色の人を見つけることができる。この街には成功を求めて、世界中から人が集まって来るのだ。しかし、生き残れるのは強く、運のある人間だけだ。それ以外の人間は夢とともにこの街の強靱な胃袋に飲み込まれてしまう――。

 MLSは、そんなマンハッタンにあるオフィスビルの1フロアを間借りしていた。
 中村はその部屋の様子をよく覚えている。
「すごく狭い、汚いオフィスでした。もうごちゃごちゃしていましたね」
 その小さく、雑然とした雰囲気も中村には好ましく感じられた。これから成長しそうな、活気、勢いを感じたのだ。

 中村はその後もロドリゲスとメールでやりとりし、論文を書き上げた。そして、中村はロドリゲスにお礼のメールを送り、MLSで雇ってくれないだろうかと訊ねてみた。
 返事は「ノー」だった。

 MLSでは新規の採用は行っていない。まずはインターンとして働き、その後に雇用するかどうか決めるという。
 中村はインターンに応募し、合格を勝ち取った。スポーツビジネスの現場で働きたいという人間は多い。MLSでインターンとして採用された日本人は、中村が初めてで、それ以降もいない。

 高い競争率をくぐって採用されたインターンではあったが、期間中はもちろん無給である。中村は当時、交際していた現在の妻と一緒に住み、家賃を倹約することにした。そして、最低限の生活費を稼ぐため、夜中に、かつてアルバイトしていたスポーツポータルサイト「スポーツナビ」の原稿を書いた。時に日本から来るサッカー関係者の通訳としての仕事に助けられたこともあった。

 MLSの転機を体験

 中村は幸運だった。MLSが大きく変わりつつある時期に居合わせたからだ。

 現在のMLSが始まるきっかけとなったのは、1994年ワールドカップ・アメリカ大会だった。
 アメリカ大会は史上初めて、国内にプロリーグが存在しない国で開催された。それでも、史上最高の観客動員数を記録したことは、アメリカという国の奥深さを示している。

 アメリカには野球、アイスホッケー、バスケットボール、アメリカン・フットボールという四大スポーツがある。それ以外にもサッカーは、欧州、中南米から数多くの移民がおり、一定の人気があった。その意味で、アメリカでのワールドカップ開催が決まった直後から、プロリーグの構想が始まったのは当然のことだったろう。

 MLSは、ワールドカップ2年後の96年に10クラブで開幕した。
 スタートは華やかだった。コロンビアの天才ミッドフィールダー、カルロス・バルデラマなどのスター選手が移籍してきた。しかし、勢いは限定的だった。それを象徴するように、98年に12クラブに増やしたが、02年に10クラブに戻している。

 膠着状態である。
 そこで採った策は、さすがスポーツビジネスの先進国ならではというべきか、あるいは枠にとらわれない発想を重んじる国ならではというべきか――。

 MLSは02年に「サッカー・ユナイテッド・マーケティング」(SUM)という姉妹会社を立ち上げたのだ。
 中村はSUMをMLSの生き残り策だったと説明する。
「MLSのクラブは毎年赤字を出して苦しんでいる。しかし、アメリカ国内でもサッカービジネスは成功している。自分たちのやり方に問題があるではないかと。そこでMLS自身がサッカービジネスに乗り出すことにした。もちろん、MLS本体が、他のリーグや団体の権利を扱うことはできない。そこで、SUMを作って、まずワールドカップのアメリカ国内での放映権を買った。日本に置き換えてみれば、Jリーグがサッカー専門の広告代理店を作ったようなものです」

 このSUMは、MLSのあり方を決定的に変えることになった――。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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