1990年代後半から2000年代前半にかけて、日本の格闘技は一大人気を集めていた。K-1やPRIDEの大会は地上波でも放送され、ファンを増やしていった。愛媛の片田舎で育った中村ジュニアも、そのひとりだった。
「テレビで試合を観ていて、ピピッとくるものがあったんです。“格闘技をやりたい”って」
 名指導者からレスリングを学ぶ

 愛媛みかん有数の産地、宇和島市吉田町でみかん農家に生まれた中村は、保育園から柔道に取り組んだ。柔道をしていた祖父の影響だ。中学時代は早起きして学校での朝練、授業が終わってからの部活動、そして地元の柔道クラブでの練習と、柔道漬けの日々。そのかいあって、中学3年時には県総体で73キロ級を制し、四国大会も突破して全国大会出場も果たした。

 高校は柔道の強豪でもある宇和島東へ。しかし、ここで中村は目標を見失ってしまう。
「中学時代に全国大会に出て、ちょっと満足したところがあったんでしょうね。練習はやっていましたが、どこか気持ちが入っていない部分がありました」

 当時、県下の73キロ級は、後のロンドン五輪銀メダリスト・中矢力と、山辺雄己の新田勢が頂点を争っていた。一瞬の燃え尽き症候群にかかってしまった少年は2強を崩せず、3年間で思うような成績を残せなかった。

 高校卒業が近づくにつれ、中村は格闘家への夢をどんどん膨らませていく。進学や就職を目指す同級生たちを横目に、部活動が終了した18歳が通ったのはレスリング教室だ。夢を現実にすべく、レスリングの技術を磨きたかったのだ。

 教室は2017年の愛媛国体を見据え、ジュニア育成のため、宇和島市内に設けられたものだった。指導者の田中吉次は中学体育教諭の傍ら、地元の子どもたちにレスリングを教えていた。アテネ、北京五輪でグレコローマンスタイル84キロ級に出場した松本慎吾(現日体大レスリング部監督)や、現在は新日本プロレスで活躍する田中翔らを育てている。

「体力的に強くなりたいということで教室にやってきたのを覚えています」
 教室に通ったのは高校卒業までの半年強。だが、田中にとって中村は印象に残る教え子だ。
「柔道をやっていただけあって、実力はありましたよ。短期間でタックルをはじめ、レスリングのひととおりの技術は身につけましたね。性格的にもいい子で、教室に通っていた子どもたちの面倒もよくみてくれました」
 
 覚えたてのレスリングで県の国体予選に出場し、2位。センスの高さを示した。この時、体得した低いタックルや俵返しは、小柄な中村にとって今も大きな武器になっている。

 “ジュニア”の由来

 もちろん、格闘家になるには、どこかのジムに弟子入りする必要がある。しかし、これまで愛媛で生まれ、育った人間にツテはなかった。中村は年末年始のアルバイトで資金を貯め、上京。門を叩いたのが桜井“マッハ”速人が主宰するマッハ道場だった。
「マッハさんはテレビでPRIDEの試合を観てカッコいいなと憧れていました。柔道出身ということで共通点もあると感じたんです」

 マッハ道場は都心から少し離れた茨城県龍ヶ崎市に拠点がある。宅地と畑が広がる閑静な場所だ。
「田舎から出てきたので、都会のど真ん中ではなく、ゴミゴミしていなかったのも気に入りました」
 師匠も環境もピッタリと感じた中村は弟子入りを願い出る。

「無尽蔵なスタミナがあってガッツがある。性格がまじめで、コーチたちの指導もよく聞いて練習しますからね。純粋なところが気に入りました」

 入門を受け入れた桜井は、中村にニックネームをつける。
「当時は、うちのジムに中村という苗字の人間が3人いたんです。彼が一番小さかったので、ジュニアと呼ぶようになりました」
 今や、ジュニアの呼び名は道場内のみならず、ファンの間に定着し、リングネームにもなった。

(第3回につづく)
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中村ジュニア(なかむら・じゅにあ)プロフィール>
1988年6月29日、愛媛県宇和島市生まれ。本名・中村好史。小中高と柔道に取り組む。格闘技に憧れ、宇和島東高時代にはレスリングも学び、卒業後に上京。桜井“マッハ”速人が主宰するマッハ道場に入門する。09年の全日本アマチュア修斗選手権ではライト級優勝。10年2月にプロデビューを果たす。11年12月には新人王決定トーナメントを制した。15年1月には環太平洋ライト級王座決定戦に臨み、宇野薫を下して第6代王者に。修斗でのプロ戦績は16戦9勝(1S)6敗1分。身長161センチ。




(文・写真:石田洋之)


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